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感情を元手に文章を書く危うさについて

もやもやする頭のなかを文章化して、つらい気持ちや状況を変えていきたい。つまり「元気になるnote」を目標に書いていたけれど、ひと月も経つと筆がすすまなくなった。
わたしの手持ちのカードが「感情」ばかりだったからだ。

感情だけを元手にした文章は続かない。なによりも、書き上げた瞬間から「乖離」する問題に対抗できる「余地」がない

感情のメモから文章化するのは難しい

noteをはじめてから、思いついたことを紙のノートやスマホのメモアプリに書き留めていて、春から秋にかけては「つらかった、腹が立った」「でもどうすればよかったのか、いまだにわからない」といったネガティブな感情をひたすら吐き出していた。

そうしたメモが何百個あっても文章化するのは難しい。

とくに、恨み・つらみ・妬み・嫉みといったネガティブな感情だけでは、noteのような公共の場にふさわしいオチやマナーのある文章をつくれない。

オチがなくてもいい、嘘をつかず感情を率直に出そうと試みた時期もあったが、嫌な感情や記憶をくわしく書き起こせば追体験するはめになる。だんだん気持ちが悪くなって、たくさんの下書きがゴミ箱行きに。

さらに、感情は不安定で頼りない。数日前に書いた文章に「なに言ってんだよ」と毒づいたり、「ぜんぜん違う」とリセットしたくなったり。自分の言葉に責任と覚悟が持てなかった

これらの問題点はそのまま、noteを続けられない理由になる。言い換えれば「感情を元手に文章を書かないように意識する」と、それはそのまま、#noteのつづけ方 になるのだ。

ポジティブな感情も例外ではない

問題はネガティブな感情に限った話ではない。何かいいものに出会い、好意や共感を惜しみなく伝えたい欲求にかられたときも、「素敵!」「最高です!」「そうだそうだ!」で終わらせてはダメだ。

いっときの感情の高ぶりをほかの言葉に変換できないなら、示したいのは好意や共感ではなく、自己顕示欲では? 「わたしもそう思ってたし」「だれよりも理解してるし」という排他のアピールではないと言い切れるか? 我が身を振り返ると疑念が消えることはない。

書き上げた瞬間から「乖離」が起きる問題

しかし最大に注意したいのは、どうしたって「乖離」が避けられない問題だ。

ある日、感情を完璧に切り取った文章を書けたとしよう。だが言葉を書きつけた瞬間からその感情を保有する自分はもういない。超音速で遺物となった感情に、共感や移入をする他人が現れたら一体どうなる? 無責任な感情と一緒にその人も置き去りなる。その行為を、自分に許すのか。

自分が書いた文章と、その共感者とは出会った瞬間から「乖離」する。この矛盾に気づいたときとてもショックだった。

正直、わたしはnoteを書いて自己満足するだけでなく、同じ感情や悩みを持つ人と出会えたらいいなと期待した。求めていたのは共感の数ではなく、1人でも2人でも3人もいれば充分だった。書きながら自分を救う方法論を実証できたら、その人たちもちょっとは救われたりしないだろうかと淡い期待を抱いたのだ。

この発想は弱い。共感を誘う文書で他人をどうにかしたいと思ったり、実生活では他人とわかりあえた実感がないのにネットでは簡単にできる気がしたり。おごりというより、あわよくば自分の泥沼に他人を引きひきずり込もうとする妖怪みたいな自分を見た

そんな自分に「乖離」を乗り越える強さはない。これが感情を元手に文章を書く行為の限界である。

ではどうするか。ひとつは先達から学ぶ。

きっとどんなふうに文章を書いたって、どんな手段で創作したって、作り手と受け手の「乖離」は避けられない。

ただ、わたしは人生の一時期を、確かに『未来少年コナン』に救われた。
それだけじゃない。『サイボーグ009』、『11人いる!』、『地球(テラ)へ...』、『新世紀エヴァンゲリオン』も。SF以外にも恩義を感じる作品はたくさんあるが、優先的に書き出すとこうなる。そのわけが、以下の記事を読んでわかった気がする。

ガンダムの生みの親で、“未来をつくる創作物” にこだわる富野氏の言葉だ。

前略 『僕は現状の鬱屈感だけを描くこと――それは結局、個の物語になるわけですけれど――それが次の時代のステップになるのかといえば、なると思えない。』
中略 『だからこそ、鬱屈への共感を生んで、視線を自分の内側にだけ向けてしまう作品は危険だと思うんです』

先達は、感情に翻弄されやすい人間の弱さをどう扱ってきたのか。
作り手と受け手の「乖離」の問題をどう扱ってきたのか。
それらを承知のうえで、どうやって人生を救える作品をつくってきたのか。創作の歴史をもっと知らなければいけないと感じている。

また、わたしはコンテンポラリーダンスを見るのがとても好きなのだが、彼らは個人の感情をどのように取り扱い肉体の動きとリンクさせているのか?

つまり人間が創作という手段で感情や悪意や攻撃性を昇華させられるなら、どんな方法論があるのか知りたいのだ。

危うさを乗り越える「いい独り語り」は可能か?

上の記事で、富野氏はこう言っている。現状の鬱屈感だけを描くと、結局、個の物語になると。そして視線を自分の内側にだけ向けてしまう作品は危険だと。

ただもう少し、個の物語をどう語るべきかについて考えてみたい。

わたしは、感情から一番距離が近い文章は「独り語り」だと考えている。独り語りによってつむがれるのが個の物語だとすると、その必要性も認めている。
なぜなら、対話や共同体の物語のなかへ様々な理由で入って行けないケースがある。それを他人事とは思えないからだ。たとえ実生活で対話や共同体へ参加できなくても、「いい独り語り」をして堂々と個の物語をつむいでいけたら健全ではないか。

その際に不可欠なのは、「独り語り」や「個の物語」の先にある景色を想像したり、自分の「内なる他者」を感じられたりする、さまざまな「余地」を獲得することではないだろうか?

たとえばわたしは、取材時のインタビューが苦手だ。ついでに言うと給湯室やエレベータホールでの雑談も、友達との飲み会も、1人になってから必ず後悔する。もんどりうって寝られないほど自分を恥じる。自意識も被害妄想も過剰な人間なのだと自覚している。

数々の失敗経験から逆算して考えてみると、感情を吐き出すよりもじっと見つめて、気持ちの転換・言葉の変換を試みながら、思い込みを捨て、新たな思考を育てていく訓練が足りなかったと分析できる。
対話する人の立場や気持ちも想定して考えを深めながら、内なる他者の存在を感じられるようになりたい。
こうした「いい独り語り」の時間を充分にとった結果、「思い込んでいたけど、もしかしてこうかな?」と仮説が立てられるようになり、リアルに人と対峙したときに実りのある対話が成立するのではないか

そうした「いい独り語り」を助ける方法をしばらく探したい。
具体的にはメモ術、ノート術、思考法、文章術のようなカタチになると思う。

なぜ独り語りの技術を語ろうとしないのか?

しかし思考法や文章術に目を向けてみると、ベストセラー本の多くは対話や共同体を前提にしていると気づく。

とりわけ「早く・うまく・わかりやすく」を使命とするネットの文章術や、「ごちゃついた思考を整理して相手を納得させよう」とするビジネスの文章術においては、独り語りなど存在しない感じで話がすすむ。

思考の整理術、対話の事前準備、という位置付けで独り語りに触れられるケースはあるが、どうも「独り語り→対話」というふうに一直線の矢印で結び、独り語りを対話の下位概念として扱っているように感じてしまう。

また、「独り語り(モノローグ)→対話(ダイアローグ)」とカタカナに置き換えると「オープンダイアローグ」を思い出す人もいるだろう。グループセラピーの一種で、発祥の地フィンランドでは公的に無料で受けられるほど浸透している精神療法だ。

オープンダイアローグは、個人のモノローグを複数人によるダイアローグへと導いていく手法だから、対話を問題の解消に役立つものと位置付けている。その一方で、独り語りは問題の解消のさまたげにもなり得るという位置付けで語られることがある。
精神医療の現場に携わる人のツイートなどを見ていても「独りで考えると悪い方へ行きがちだ」というような指摘は少なくない。

いままで見てきた「独り語りの危うさ」を考えると、対話=ダイアローグの手法を積極的に勧める流れはもっともだと思える。

ただ、「独りで考えると悪い方へ行きがち」ならばなおさら「いい独り語りの方法論や、いいモノローグのための文章術」を勧める支流を、本流以外の選択肢として提示するべきではないだろうか?

これからの「独り語り」は、異質なものを受け入れる「余地」を持たせるのが課題

「誰かの共感を得る文章」や「社会の役に立つ文章」を書く技術はいまのところ本流だが、すべてではない。
本流以外の選択肢がもっと増えれば、個の物語を健やかにつむぐ環境がいまよりも整うのではないか

支流ではあるが、いい独り語りの方法論や、いいモノローグのための文章術を考える行為は、感情のコントロールにつながり、自分の書き言葉と読み手に対する責任感を養い、文章を書き続けられるタネを育てる。

課題は、感情から一番距離が近い文章である「独り語り」の性質をふまえて、感情や自分とは異質なものを健やかに受け入れる「余地」をどのように持たせていくかだ。
これからnoteを書き続けるために、考え続けるためのテーマとして追加したいと思う。

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