安藤忠雄『神戸 こども本の森』騒動雑感/本への幻想について
ツイッタラー廃人のTLに、最近てきるらしい図書館への批判が流れてきた。
(最初に気になったツイートは削除されていたのでまとめ)
批判の筋としては壁面一面にどどんと陳列された本たちへのものであった。「子供のための図書館なのにとれない場所にあるのはなんなのか」みたいな趣旨かと思う。記事を読むと設計者は安藤忠雄氏とのことだった。
安藤忠雄。押しも押されぬ日本の著名建築家である。トップオブトップといってもいいのではないだろうか。その作品群はコンクリート打ちっぱなしを特徴としつつ、静謐さや畏敬、空間構成の妙が評価されている。
それが今回批判で大バズりである。気になったので自分なりに批判の底にある批判者の意識と施設意図を、公式ホームページや氏の作品群から考えてみたいと思う。
1「こども本の森 神戸」概要・安藤氏のコンセプトについて
とりあえず公式ホームページから。
以下安藤氏のコメント引用。
"これからの社会を支えていく子どもたちには、出来るだけ多くの本と出会い、豊かな感性を育んで貰いたいと思います。スマートフォンに触る時間を半分にして、本を読み、考え、そして悩むことで、人生を生きぬく力を身につけて欲しい。そこで、1995年の震災で壊滅的な被害を受けながらも、人々の頑張りによって復興を成し遂げ、美しい街並を取り戻した神戸のまちに、自由に活字文化に触れることのできる、子どもの為の図書館をつくってはどうかと考えました。"
(引用終わり)
氏のスマートフォンや現代技術に関する見方は置いておくとして、子供たちに本を読んで生きる力を身に着けてほしいというシンプルなものなのかと思われる。施設やデザインはこの目的の為にどう構成するか、という所に重点が置かれているとみていいのではないだろうか。
また、建物の沿革は結構特殊で、安藤氏が氏に提案し、その寄贈を神戸市が「子どもたちが豊かな感性と創造力を育むことを目的とする公の施設として設置すること」として受納、設計建設費用はすべて安藤氏の個人負担であり、運営は企業や市民の寄付となっているとのこと。このため貴重な蔵書の保管等も大事な業務としてある一方、その他の図書館と比べて少し性質が異なるのかなとも感じる。
ニュースの動画を見る限り壁面は一面本でが並べられている。他の記事によると下5段が自由に取り出し可能な仕様となっており、それより上は展示、意匠の意味合いが強い。本はしっかり固定されており、震度7でも落ちてこない設計とのことであった。
2.施設を巡る批判の筋について
いくつかの批判筋がみられた。大意としては「独りよがりの建築物」というものかなと感じた。以下いくつかの批判点を列挙する。
①上の本棚に手が届かないのは無駄ではないか。また、危険である
②本棚上がただのイミテーションにするのならそこも本棚にすればいい。より本が収容できる
③本はオブジェではない。読まれるためにあるもの。
④市は安藤氏に仕事を依頼するのは止めた方がいいのではないだろうか
⑤おしゃれな図書館は要らない。なにか勘違いしているのではないだろうか
⑥子供たちも嬉しがっていない
こんなところだろうか。その他にもいくつか筋はみられた(大阪維新云々みたいな話とか、芸術と実用が云々とか)が、あんまり図書館自体の話じゃなくなるのでここでは省く。こんな感じで色々あり、数千RTからいいねが付く程度には拡散されているのが現状ある。これらの批判点についていくつかは自分なりに考えると、
①そもそもそこは意匠上のものである。また、落下防止等についてはしっかりと対策が施されている
②そこに収容することの利便性等が発生するため、その指摘なら”図書館に吹き抜けは要らない”みたいな意匠の話に関連していく
③後述する。
④そもそも個人で費用を負担している施主なので、大きな公共物としての注文はあれども大部分の権限は安藤氏にあると思われる。
⑤図書館としての機能がおしゃれさで損なわれているというのならそういったデータで示す必要がある。既存の物を取り潰して改悪したとかそういう話なら比較しやすいが、今回は新規の物であり、無から有を創出していることに間違いない。しかも安藤氏の負担であるため税の無駄遣いとも言いにくい。
⑥ニュースに切り取り方によってそういう子供も、そうじゃない子供も見受けられる。意見が散るのはあたりまえのこと
と、いくつかは誤解のようなものであることが分かる。こういった炎上は実際を検証する人間というのは非常に少なく、一度広がったものはそのままのイメージで話されることがほとんどであり、今回もその例に漏れないと感じる。本来ならこの記事も実地にいって確認するなどが必要と感じるが、距離とかコスト面で今回は動画や公式サイトのみのもので構築している。それだけでも十分すでに、炎上によるイメージは一人歩きしているように思える。
3.『本・空間あるいは知』への幻想について
さて、飛ばした批判筋③⑤に関しての話である。③が最もその認知を端的に表しているのだけども、どこかに『本を読むこと、知的なこと、翻って図書館はそういう知識の倉庫であること』みたいな観念が当然のようにあるのではないだろうか。極端な話、読まれないためにある本もあり、使いつぶされる本もあるのではないだろうか。無論意匠として展示されている本は蔵書として同じものが用意されていて、こどもが「あれ読みたい」と希望したら可能になっているんだろうなという実務上の対応もされてるんだろうなとは思うのだが、それ以上に本をありがたがる思想が見え隠れしているように感じる。
このため図書館はおしゃれじゃなくても蔵書が多いほどよく、居心地の良さは関係なく、それが子供たちのためになるという前提が発生するからこそ『独りよがり』という意見が出るのではないだろうか。
無論建築物の設計なんて独りよがりな面があることは当然だとは思う。その批判も多々ある。ただ、それは批判している側の図書館やひいては本を読む子供はこうあるべし、という意見も同様に独りよがりになっているのではないだろうか。
あまりまとまっていないけど、批判的意見には本に対する、また読書をする子供への幻想が漂っている。
極端な話、この図書館は本が主役じゃなく、子供たちが主役であって、その中に消費される本と空間というものが主軸にあるとしたら。
そんなことを考えてしまう。
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