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「ブランデンブルク」でつながる門とバッハとワーグナー【前編】

今回と次回にわたり、「ブランデンブルク」と「ブランデンブルク門」について紹介し、それらと関連するバッハとワーグナーのエピソードをご紹介します!
今回は「ブランデンブルク門とその建設経緯」、そしてそれらと縁のあるバッハのある楽曲についてを扱います!

ブランデンブルク門とその建設経緯とは

ブランデンブルク門はドイツ・ベルリンにある門で、この門の東側には広場(Pariser Platz)があります。


この門はある人の命令で1791年に作られました
その命令を下したのはフリードリヒ・ヴィルヘルム2世、当時のプロイセン国王でした。

【詳細―プロイセン王国(1701~1806)について】
1700年代のドイツは神聖ローマ帝国の時代。しかも、当時は300以上の領邦国家と帝国自由都市の集合体でした。(より詳細に申しますと、1648年以降のヴェストファーレン条約下の神聖ローマ帝国であったからです。)
それまではプロイセン公であったフリードリヒ1世は、1701年に、帝国領域外で戴冠の承認を受けることで、初代の「プロイセンの王」を名乗れるようになりました。これは、当時のプロイセンが、神聖ローマ帝国の配下にありつつも、王国の一つとして認められたことを意味するとのことです。


ではなぜプロイセン王はブランデンブルク門を建設させたのでしょうか?

答えを簡潔に述べるなら、プロイセン王国の領地内にブランデンブルクがあり、ベルリンからプロイセンの領地の一つであるブランデンブルクへ通ずる門としてブランデンブルク門が作られたのです。

【詳細―プロイセンとブランデンブルクの関係】
もともと、1157年より神聖ローマ帝国の選帝侯の1人であるブランデンブルク辺境伯の領地として「ブランデンブルク辺境伯領」がありました。そして、1525年より公爵がもつ領地が主権を持った国家として「プロイセン公国」がありました。
この2国が連合を結ぶきっかけは、1415年にホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯位を獲得したことにあると言えるでしょう。 なぜならその後の1618年にホーエンツォレルン家出身のブランデンブルク選帝侯がプロイセン公国を継承したことで、ブランデンブルク選帝侯1人がブランデンブルクとプロイセンとを治めることになり、同君連合としてのブランデンブルク=プロイセンが成立したからです。


つまり、ブランデンブルク門は、ベルリンとプロイセンをつなぐ役割を果たしており、ベルリンから人々がプロイセンにあるいはプロイセンの領地内であったブランデンブルクやポツダムに行く時に必ず通過するのがブランデンブルク門でした。

wikipedia「ブランデンブルク門」



バッハ作曲《ブランデンブルク協奏曲》

さて、今まではブランデンブルク門について語ってまいりましたが、ここからはそんなブランデンブルク門と(こじつけると)縁のある楽曲についてお話しましょう!

それは、バッハ作曲《ブランデンブルク協奏曲》です!


《ブランデンブルク協奏曲》は、1721年に作曲されました。
ブランデンブルク門が1791年に完成していますので、その70年前に作られていますね。

この楽曲は、当時のブランデンブルク=シュヴェート辺境伯に献呈されました。

【詳細―ブランデンブルク=シュヴェート】
1688年にブランデンブルク辺境伯が自身の息子の一人に、領地の一部であるシュヴェートを相続させたことで成立したのが「ブランデンブルク=シュヴェート」である。
しかし、1788年にブランデンブルク=シュヴェート辺境伯の血筋が断絶したため、プロイセン王国に併合された。


実は「ブランデンブルク協奏曲」という題名は、後世においてシュピッタという『バッハ伝』を著した研究者さんが命名したものです。

この楽曲の原題は
"Six Concerts Avec plusieurs Instruments(種々の楽器のための六曲の協奏曲)"
です。

Wikipedia: 「ブランデンブルク協奏曲」よりブランデンブルク協奏曲の自筆譜の表紙


この題名が表す通り、この楽曲は6つの協奏曲から成るのです。


実は、「この曲がなぜ作曲されたのか」、「各曲がどのような制作過程で書かれたか」は現在も明確にはわかってはいないようです。

「なぜこの曲が作曲されたのか」に対する現状で最も有力な説は、「バッハの就職活動のため」です。
当時バッハが所属していたーーが音楽に力を入れなくなっていく傾向があり、新しい就職先を探していて、この人に献呈すれば就職先の斡旋or箔がついて就職しやすくなるかなとかんがえたのではないかと言われています。

現代で考えると、就活でポートフォリオを見せることや、採用に影響力を持つ人に手土産と履歴書を持っていく感じでしょうか??
当時の音楽家の就職活動はそのようなやり方だったのでしょうね、きっと。

一方、「各曲がどのような制作過程で書かれたか」については、多くの曲が既存の楽曲のフレーズに着想を得て(フレーズを用いて)、楽曲構成をし直したりアレンジをし直したりして集められた曲集ではないかと言われています。


終わりに

いかがでしたでしょうか?今回のテーマは、なぜ「ブランデンブルク」なのだろうという個人的な疑問から調査を進めてまいりました。
思っていた以上に歴史と地理との背景が豊富でして、それらが読んでくださった皆様にうまく伝わっていればと願うばかりです。

今回は「ブランデンブルク門とその建設経緯」、そしてそれらと縁のあるの楽曲としてバッハ《ブランデンブルク協奏曲》を扱いました。

次回は「ブランデンブルクという地」と「ブランデンブルク門が象徴すること」、そしてそれと縁のあるワーグナーのあるエピソードについて扱います!

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