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『輪番のジレンマ』日本銀行による国債買入れの行方

「輪番」とは日本銀行が実施する国債買入れオペレーションの通称である。なぜ輪番と呼ぶかは古い歴史があるらしいが、私は当時のことをよく知らない。呼び名はともかく、日本銀行が異次元金融緩和の出口、正常化の途に就き、この輪番の扱いが問題になっている。

2024年3月に異次元緩和は終了し、複雑怪奇だった様々な金融政策ツールは軒並み廃止の方針となったが、輪番は「これまでと概ね同程度の金額」で実施するとされた。短期金利を操作目標とした「普通の金融政策」への復帰が優先され、輪番の減額は後回しにされた。

なぜ後回しになったのか。一般に、短期金利の引き上げは、将来の金利水準の予想平均を引き上げ、長期金利を上昇させると考えられる(あくまで「一般に」である)。また、輪番を減額させれば、国債という金融商品の需給が悪化し、値下がりする、長期金利が上昇すると考えられる。この両方の効果が同時に働くと、長期金利の上昇圧力が極端に強くなる可能性がある。

異次元緩和下で日銀はまさに異次元の輪番を実施してきた。本稿執筆時点で国債発行残高の過半は日銀が保有しており、債券市場での存在感は圧倒的だ。異次元緩和の出口で長期金利が急騰すれば金融機関経営上のリスクとなる可能性がある他、財務省の債務管理政策にも影響し、ことと次第によっては国民生活に直接影響する可能性も完全には否定できない。そうした懸念から、長期金利の急騰を回避するため、輪番減額による需給的な影響が及ばないようにしたい、市場への影響についてはとりあえず「利上げ」からの波及に限定したいという判断だったのではないか。

結果的に、異次元緩和の終了後、これまでの長期金利上昇は穏当なものだった。植田総裁が「利上げをゆっくり進める」というハト派的な情報発信を繰り返したことに加え、輪番についても「当面は現状維持とし、減額は将来どこかの時点で検討する」と、判断の先送りを示唆してきたからだ。日銀は、長期的にはバランスシートを縮小し、債券市場への直接関与を減らしていく考えだろうが、長期金利急騰のリスクを懸念して未だ実行できていない。

そうした中、2024年5月13日の輪番が減額された。減額幅は全体から見れば小さく、何らかの技術的な調整とも解釈できるが、市場参加者にとって予想外だったことに加え、減額決定の根拠が不明なことから、今後の不透明感が強まった。

今次局面において、輪番に係る日銀と市場の状況をどう理解すればよいのか、以下のように考察した。日銀と市場という2プレイヤー、日銀は輪番継続と減額、市場は長期金利の安定と急騰というそれぞれ2戦略のゲームである。ここでいう、「長期金利安定」には緩やかな金利上昇も含んでいる。

仮説は極端に単純化されており、妥当性には議論があるだろうが、思考実験的な一例とご認識いただきたい。

A)輪番継続+長期金利安定
現状維持ケースであり、日銀、市場ともに利得は基準の(0,0)とした。

B)輪番減額+長期金利安定
輪番が減額される中で長期金利上昇が抑制されるというケースである。日銀にとってはバランスシート縮小という目的が達成される一方、債券市場では買い手が不在となるため、実際にはこのケースで長期金利が安定推移する根拠は乏しい。特に、マイナス金利解除と同時期では成立しないというのが日銀の想定だったと思われる。この点は議論があろうが、市場に許容しがたい負荷が生じるとみなし、利得は(5,-10)とした。

C)輪番継続+長期金利急騰
日銀が輪番を継続しているにも関わらず長期金利が急騰してしまうケースである。市場が大きく混乱した状態であり、指値オペ乱発といった対応が必要となるだろう。日銀が最も避けたいシナリオである。利得は(-10,-10)とした。

D)輪番減額+長期金利急騰
輪番が減額されるとともに、長期金利が市場にゆだねられるケースである。日銀のバランスシート縮小という目的は達成されるが、長期金利の急騰は日銀にとっても避けたい事態であり、また、市場でもボラティリティが過大となる等の問題が生じ得る。利得は(-5,-5)とした。

このように仮定すると、ナッシュ均衡はDのみである。しかし、Dの利得は(-5,-5)であり、パレート効率的ではない。従って、日銀は「輪番を減額しない」というコミットメントを通じてB、Dの選択を排除し、A(0,0)が成立しているのが足元の状況と考えられる。

ここで問題となるのは、「日銀にとってはAよりBの方が利得が高い」ことを市場が知っていることであり、日銀自身も「長期的にはどこかで輪番を減額する」と宣言していることである。従って、日銀の「輪番を減額しない」というコミットメントは信頼されないリスクを抱えており、不安定な状況下にある。例えば、突然の輪番減額はたとえ小幅であってもコミットメントを弱め、Dへの移動を意識させてしまう。

この不安定な状況を終わらせるためには、輪番の減額が長期金利急騰に繋がらない環境が必要である。前述の通り、長期金利急騰リスクが高いと考えられるのは、利上げと輪番減額が同時に影響する場合である。即ち、
①利上げが一定程度進み、追加利上げの警戒が弱まった場合
②利上げが出来るほど物価が強くないと判明し、短期金利が長期間低位で据え置かれるであろう状況に至った場合
には、混乱なく輪番が減額できる可能性が高い。ただし、日銀としては、②は物価目標が達成できないバッドシナリオである。

あるいは、
③国債相場の利回り調整が進み、長期金利がターミナルレート付近まで上昇した場合
であれば、輪番を減額しても長期金利の上昇は軽微で一時的なものにとどまるかもしれない。

いずれにしろ、希望的には、以下のような利得行列の例が考えられる。Bが単一のナッシュ均衡であり、同時にパレート効率的である。

市場の考えるターミナルレートは見定めがたく、0.25%という声もあれば2%程度という声もある。2024年6月10日時点で10年債利回りは1%前後だが、果たしてこの水準が適正なのかは判然としない。また、そもそも長期金利急騰をことさら忌避する必要はなく、早期に輪番の減額を進めるべきだという意見もあり得る。

いずれにしろ、仮に輪番を減額する場合には、その進め方、方針の示し方が非常に重要である。果たして日銀は今後どのように正常化を進めるのだろうか。



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