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「推し」に傷ついたとき

 はじめに、この話はあるゲームにはまって、その中のキャラクターに対してまるで彼らが現実にいるように共感したり、励まされたり、あるいは傷ついたりするタイプの人間の話です。ゲームと現実の区別がついていないのではなく、俳優さんやミュージシャンのような「現実にいるけれども直接人間関係を持つことはできない」人たちと同じような感覚で見ています。それを踏まえてお読みください。気持ち悪い、理解できないと思った人はここでブラウザバック!

 私は子供の頃ゲームや漫画、アニメといったものが許されていなかった家庭に育ったので、大人になってからそうしたものの楽しみを覚えました。特にスマホゲームが普及して、ハードを持っていなくてもゲームが楽しめる、そのハードルが下がったのは大きかったと思います。と言っても、もともとやりつけていないものだからか、生活がそれ一色に染まるほどではなく、いくつかある趣味の一つという程度でした。とりわけ、いわゆる乙女ゲーム(正式にはシミュレーションゲームというのでしょうか)の類は、高校の頃周りではまる子が多くいたので親しみはあったのですが、大抵主人公の性格や言動に共感できないことが多くて、スマホでできるようになってからいくつかやってはみたもののすぐ飽きてしまい、続いているのはほぼRPGやアドベンチャーものばかりです。ところが、数ヶ月前、あるゲームに出会ったことをきっかけに、私の世界は大きく広がりました。

 きっかけは、新しいゲームを探していて、たまたま見ていたランキングページに載っていたのが目についたのだったと思います。登場キャラクターは全員男性で、すなわちいわゆる乙女ゲー、女性向けのカテゴリに入る作品だったのですが、主人公の性別を選べるというのが新鮮で、そこに興味を惹かれDLしました。始めてみると、今までやったことのあるもの(主人公がやたら弱い、作品を覆うジェンダー観が古い)とまるで違っていて、いわゆる乙女ゲーではないことがすぐわかりました。まずシナリオが非常に良くできていて重厚、物語としての完成度が非常に高く、飽きさせない。そして一般的な女性向けのシミュレーションゲームにありがちな「各キャラクターの攻略要素」は存在せず、従ってルートやエンドもない。ゲーム全体の構成はメインとなるストーリーと定期的に行われるイベントで読めるストーリー、それに加えてそれぞれのキャラクターのミニストーリーがキャラクターの人数分あり、キャラクターごとのストーリーは特定の作業を行う中でランダムに発生したり、ガチャで獲得できたりする、という設計です。つまりとにかく「物語を楽しむゲーム」でした。そして各キャラクターの作り込みもまた非常に良くできていて、20人以上いるのに全員ちゃんと違っていてバランスがとれており、それぞれに魅力がある。これは自分の創作にとっても非常に勉強になりました。
 さて、そうなってくると、自然に「惹かれるキャラクター」というものが出てきます。それがいわゆる「推し」というものなんだなと、遅まきながら初めてその概念を私も理解する時がやってきました。私はバンギャでもあるので「推し」の概念自体知らないものではないのですが、2次元はまた少し違うのだろうと思っていたわけです。ちなみにこれを書いている現在も、ちゃんと他の人の一般的な「推し」概念を理解しているかどうかは定かではありません。

 とにかく、私はおそらく生まれて初めて、一つのゲームにこんなにのめり込んだわけです。たまたま家にいる時間が多いタイミングなのもあって、下手すると半日以上開きっぱなしのこともあります。初めて、専用のTwitterアカウントを作り、同じ作品のファンの人たちと繋がりました。これまでゲームは私にとって自分一人でやるもので、そのためユーザ同士の交流や協力を前提とした作品を避けていたくらいです。ですが、この作品に出会って初めて、「この感情を他の人と分かち合いたい!」と思いました。そうして、これまで知らなかった自分の中のいろんな感情を知りました。新しく公開されたストーリーを読んで感情が揺さぶられて泣いたり、何度もやりこんでようやく読めたキャラストーリーに感動したり萌えたり、あるいは共感できなくて落ち込んだり。そうする中で、自分の価値観や生き方を今までと違う角度から考えるきっかけもたくさんもらいました。

 そうしてだんだん「思い入れのあるキャラ」(つまり「推し」)が何人かに絞られてきて、周りにも「〇〇推しの人」として認知されるようになり、わーきゃー騒ぐのが楽しい時期に突入します。そうなってしばらく経った時、その問題は起こりました。

 全ての女性向けゲームがそういう構造になっているのかは他にあまりやってきていないので分かっていないのですが、この作品の特徴として、「ストーリーの種類が非常に多く、全てを網羅するのは相当に骨が折れる」というものがあります。メインストーリーはゲームを初めてすぐに読むことになり、解放に必要な条件もかなり甘く設定されているため、比較的早い段階で最新まで読むことができます。しかし、各キャラクターごとのストーリーはランダム発生だったりガチャで獲得するしかなく、さらには過去に開催されたイベントのストーリーも含めると相当な量がある(しかも現在進行形で増える)ので、リリース時から始めた古参ユーザはいざ知らず、すでにリリースから数年経っているところから始めた新規ユーザがその全てを読むことはほとんど不可能なのではないかとさえ思えます(これに加えてさらに雑誌やファンブックなどのクロスメディア展開もしている)。
 つまり、それなりに各キャラクターのストーリーを読み、その中で次第に特定のキャラクターに惹かれていくようになり、その後イベントや獲得したミニストーリーでまた新しい情報を積み重ねてますます好きになっていく、というのが順当に「推していく」ことになるのだとしたら、反対に「それまでずっと好きだったのに、新しく解放できたストーリーで自分としてはどうしても受け入れられない言動をしていて、どうしたらいいかわからなくなった」ということもあるわけです。私は、不運にもその後者のケースになってしまいました。

 こういうことは、3次元でもあると思います。いわゆる「炎上」などが一番分かりやすい例でしょうか。キャラクターの場合は、作者の意向一つで変えることができるのが実在する人物と違うところでしょうが、我々ユーザとしては作者に直接物申すことができるわけではない以上(する人もいるでしょうが、それは3次元の推しに対してもSNSのコメントやファンレターなどの連絡手段で訴える人もいることを考えると同じかなと思います)、同じと考えていいように思います。

 私が具体的にぶち当たったのは、「弱さ」を切り捨てる発言でした。特定を避けたいのでややぼかしますが、そのキャラクターは「強さ」が全てと考える傾向にあり、情に厚く頼れる親分肌ではありつつ、そこに私は惹かれたわけですが、最後のところ「弱いことに甘んじている人を見下げる」という冷酷な一面が見え隠れしていました。その思考の背景には、自分自身弱かったけれど、死にそうな目に遭いながら這いつくばって強くなってのし上がってきたというバックグラウンドがある、という設定なので、それはそれで理解はできます。だからこそ、他人もそうできるはず、できないのはやらないだけだ、という「切り捨て」を見せる。そこに、私はひどく傷ついてしまったのでした。

 「弱さ」というのが、ずっと私にとって一大テーマであったということが、今回これだけショックを受けた理由の一つなのではないかと自分で思います。
 昔から、私は「変わっている」と言われ、仲間外れにされがちでした。大人になってからはそれなりに社会性も身につけ、それなりの人間関係も築けるようになりましたが、根底には「自分は他人に受け入れられない」という思い込みが未だにあります。その思い込みが、必要以上に他人の発言や行動を自分に対しての悪意に読み替えたり、歪んだ自己評価に繋がっているのだと、自覚しています。そんな私なので、当然「できない」ことが人より多く、劣等感も強く、「望むことを諦めたい」瞬間は今でもまだあります。「自分なんかにできるわけがない。傷つきたくないから、自分を惨めに感じたくないから、そもそも望みを持ちたくない」と思うわけです。それこそ、「弱さに甘んじている」と言える。それを切り捨てるようなことを大好きな人(あくまで、キャラクターですが)に言われたと、そういうことなのです。つまり私の全てではないけれど、大きく根っこにあるものを、否定されてしまった。
 経験がないと、そのショックはなかなか理解しづらいのでは、と思うので、例を考えてみたのですが、家族や友人、恋人に「自分としては許せない・受け入れがたいこと、例えば自分や自分が大切に思っているものを否定するような言動」をされたのに近い、と思います。「推し」とは自分にとってそうした人たちと同じくらい生活に食い込んでいて、支えになっていて、人生を豊かにしてくれるものです。そういう存在に、自分を否定される。その辛さは、「受け入れられないと思うなら、辛いなら推し変すればいい。作品を見ないようにすればいい」というほど、簡単なことではないのです。恋人に受け入れられないことを言われたからといって、簡単に別れる選択ができないのと同じことなのです。

 そういう経験をするのが初めてだったため、一晩中、同じような経験をした人のブログや掲示板を読み漁りました。そして、その中には答えが見つからなかったのですが、さすがに途中で寝落ちして(眠れてよかったです)、起きて一つ思ったことを、この記事の暫定的な結論として、書こうと思います。
 実は、私は昔の恋人に似たような、弱さを言い訳にして何もしない(ように周りからは見えている)人を切り捨てる発言をされた経験がありました。それを、途中で思い出したのです。だからここまで絶望的な気持ちになったのか、と納得も行きました(それだけではないでしょうが、その記憶の影響はあると思います)。その人とは何度もその考え方をめぐって大喧嘩をしました。けれど、何度話し合い、私の意見を伝えても考えを変えてもらうことはできませんでした。上でも書いたように、弱さは私の根底にあるものなので、それはかなり堪えることだったわけですが、それでもそれだけで別れるにはその人があまりに大切で、結局受け入れられないし許せないまま、一緒にいることを選びました。多分、それが3次元の推しでも、2次元のキャラクターでも、私には同じことなんだろうと思います。人であり、あるいは人が作り出したものである以上、全てを理解し共感し賛同できることの方が稀なのでしょう。ある日見えてしまった「受け入れられない部分」が、自分にとってどのくらい深刻かにもよるのでしょうし、それまでとはどうしたってその人への気持ちは変質するでしょうが、そういう部分があっても、受け入れられないまま、許せないまま、その人ごと好きでいる、という選択もできる、と私は思っています。誰かを好きになる、ということは、もしかしたらそういうことなのかもしれません。

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