小説の添削を受けてみた

まずは、自分のこと

 私は小説を書いている。もちろん素人趣味。書き始めて、1年半くらいになる。

 最初は2次創作から始めて、それから2ヶ月くらいしてから並行して1次も書き始めた。
 最初は、プロットも何もない、勢いで書いた中編(4万字くらい)。いきなり勢いで4万字も書けるのか? と思うかもしれない。だが推して知るべし、その半分以上はラブシーン、というか全編にわたってほぼラブシーン。その合間を縫ってわずかにストーリーらしきものがある。今読み返すと投げ飛ばしたくなるが、今でも読んでくれる人が毎月何人かはいるようで、闇に葬るわけにもいかない。

 その次は、もう少しストーリーらしきものを考えて(それでもまだプロットを作るには至っていない)、同じく4万字の中編を書いた。このタイミングで1作目と2作目をKindleでセルフ出版してみた。意外とUnlimitedの方で読まれて、ちょっとした収入になった。

 それでちょっといい気になった私は、「これはプロデビューも夢ではないのでは?」と思い始めた。ここからが闇の始まりである。

 プロになるにはまず新人賞などの公募に出すのが正攻法だと思った私は、公募ガイドに登録して、目ぼしいコンテストを探し、昔一番好きだった角川の某レーベルの小説大賞を見つけた。既定の文字数は9万字から18万字。これまで書いたことのある分量の、2倍以上を書かなければいけない。
 10万字、というのが一つの壁として立ちはだかった。一回でいいから、10万字を超えてみたい、という憧れのようなものも、その頃芽生えていた。ダメならどこかの投稿サイトへでも出せばいい。そう考えて、とにかく執筆を始めた。

 そこで出来上がったのが、初めての長編(10万字)だった。今でもどうやって書けたのか不思議に思うところもある。これを書くにあたって、初めてプロットを立てた。恋人とどこかへ行く道中の車の助手席で、ノートPCを膝に広げて一心不乱にプロットを打ち込みまくっていた情景は今もおぼろに思い出せる。
 この作品を書き始めた頃、私は精神的に今まで生きてきた中でも屈指のヤバい状態にいた。書き始めた月の翌月には、仕事をクビになり、プー太郎になった。その状態でもなぜか書けた。毎日昼前に起きて、ただ書いた。食事と買い物と通院以外には、もしかしたらそれしかしていなかったかもしれない。嘘みたいにひと月と20日で、私は10万字を達成した。

 この頃の私には、勢いがあった、と思う。やればやるほど伸びて、手応えがあって、ワクワクしていた。

 だが、この長編を書き上げて、公募へ出したあと、私は一文字も書けなくなった。

 書こうとしては行き詰まり、やる気をなくし、それに焦り、を繰り返しながら、ひと月、またひと月と時間だけが経過した。

 私はこの頃から、不安に対して一つのパターンを繰り返してきたように思う。その頃書いたのが、この記事だ。

不安のパターン

 不安は、現状の否定から始まる。「このままではダメだ」という漠然とした思い。それは大抵は、「楽しくない」「辛い」という感覚から来る。
 「楽しくない」「辛い」という感覚は不快であり、そこから可能な限り速やかに脱したい。そのために、なぜ楽しくないのか、なぜ辛いのか、分析が始まる。その分析についての詳細は上に引用した記事に譲るが、最終的には「どうなれば楽しくなるか」というゴールを見つけ、「そのためには何をすればいいのか」を理解する、というのが筋道になる。

 しかし、ここが肝なのだが、この分析の途中には無数の「自己否定へとつながるトラップ」が潜んでいるのである。
 「これが楽しくないと思えない自分は向いていないのではないか」「何を目指しているかわからないのでは何もできない。やめた方がいい」「何をすればいいのかはわかったが、到底自分にはできない/やりたくない。それができない自分はだめなんじゃないか」……すぐ思いつくだけでもこれだけある。渦中なら本当にあらゆる要素が自己否定の材料になると言ってもいい。

わかってきたこと

 上の記事を書いたあと、実は私は創作活動に復帰している(だからタイトルが「小説の添削を受けてみた」なのだ)。だから、一度は壁を乗り越えたことになる、のかもしれない。と言っても何かをしたわけではない。10月頭に、3月に出していた公募の結果が出て(当然選外だった)、そこからさらに2週間ほど立った頃、なんとなく、公募に出した作品をどうしようかと考えて、投稿サイトに載せようと思って見直しする気になった。
 新しいものを書くのではなく、過去作の見直しから、というのは、そう計画していたわけでもなんでもなかったのだが、はからずもリハビリとしてはちょうどよかった。半年以上がたっていて内容もほとんど忘れていたのもよかったのだと思う。改めて読んでみて、「私、結構いい話書くじゃん」と素直に思った。
 そこから徐々に、本当に恐々と、まずは「(手直しが目的ではあるが)PCに向かって文章を書く」ということをしてみて、それから少しずつ、「書きたい気持ち」が復活していき、「とにかく一作書く」を目標に、3万字の短編を書き、その次に書きたい長編のプロットも作った。ちなみにその間も不安の連続で、何度もやめてやる! とやけを起こしては復活するのを繰り返している。

 そこから見えてきたのは、自分の「視野狭窄」および「(否定的な)決めつけ」、そして「不安を今すぐ解消しようとして却ってドツボにはまる」癖だった。それがわかっただけでも、錯乱状態になるほど(本人はいたって大真面目である)悩み苦しんだ意味はあるのかもしれない。平たく言えば、「あとから考えれば思っていたほど状況は悪くなかったし、その状況も予想しない方向にすぐに変化する」ということがわかってきた、ということである。

 状況のよしあしを判断するのは自分である。それは非常に個人的な主観でしかない。だが、否定のスパイラルにはまっているときは、なぜかそれを忘れてしまう。今自分が絶望的だと「思っている」ことは「実際、絶対的に、未来永劫」絶望的だ、となぜか思い込む。それに気づけるかどうかが、不安から抜け出すヒントになる、と最近ようやく気づいた。

ようやく本題(添削を受けてみた)

 長くなってしまった。だが、上に書いた「不安のパターン」を書いておかないと、添削を受けて陥っている心理状態をうまく説明できないので、辛抱いただきたい。

 添削は、小説講座を持っていて、ご自身もライター・作家業をされている先生に、お金を払ってお願いした。有料添削の受講に踏み切るまでに、上記のような「自分のゴールは何か」といった自己分析からの自己否定が何度も行われていたことは想像に難くないと思う。
 だが、それまで「そもそもそんなもの受けなくても魅力的な作品を書ける人は山ほどいるし、正解は無数にあって教えられるものではないのでは? それに、受験対策の予備校じゃないのだから、編集者目線で『売れる作品の書き方』を教わったところで、どうしてもプロの作家で食べて行きたいなら別だが、あくまで好きなように書きたいのなら、そこにどれだけ意味があるのか?」といった具合に散々「受講が不要である理由」を探していたのに、ある朝突然「受けてみるか」という気になってしまったのだ。本当に、そんなもんである。人間の認知なんて本当にその程度のものでしかない。

 添削は、あらかじめプロットをメールで送信しておき、先生に目を通していただいた上で、zoomにて90分1対1の対面、料金12,500円で指導を受ける形だった。

 受講した感想としては「受けた意味はあった。だが、期待したほどではない」
 受けた意味があった、というのは、「有料添削とはこういうものだ」というのが(先生によって違いはあるだろうが)ある程度わかった、ということである。どういう目的なら効果が得られそうか、どういう場合に利用するとよさそうか、というのが掴めた感じはある。
 内容としては大まかに「作品に対する添削」と「自由質問」だった。作品の添削はさすがプロで、必要のない・意味のない・取ってつけた・作者都合の設定や展開はもれなく指摘を受けた。これは自分ではなかなか気づけない。でも毎回見てもらうのではコストがかかりすぎるので、いずれその目を自分でも獲得しなければならないのだろうと思う。
 中でも、一番こたえたのは、「これだけ長い時間軸を設定するのは損をしている」というのと、「冒頭のシーンはこれじゃない方がいい」の2つ。
 時間軸については、「短い時間の話の方が凝縮されていて面白いものになる」という根拠。これはあまり納得がいかず、自分の中では必要だと思ってその時間軸を設定しているので、今後の検討要素になった。
 冒頭のシーンに関しては、今現在も頭を抱えている。「キャラの感じが冒頭でブレている」「どんな話なのか、これだと分からない。この先どうなるんだろうという期待感を煽れない」という指摘にはぐうの音も出なかった。

 ここからが問題である。またしても「だめなのはわかった。でもどうしたらいいのか分からない」である。ちなみに、先生には「こういうふうにするのとかはどう?」と代替案もいただいている。でも、先生には申し訳ないが、ちっともいいと思えなかった。だから自分で考えるしかない。頭の中には「すぐにできるようにはならんわ」という声もする。だが、だめなまま進めるのが辛い。もうどうしたって面白い作品にはならないんだから、書かなくていいんじゃないか、というところまで行った。

 でも、今の私は、去年の春から、年末年始に至るまで、大小様々な「絶望からの復活」を繰り返した記憶を持っている。そして、「自暴自棄になるほど救いようがなく見える状況も、数日もたてばまた全く違う見え方をしてくる」ことを、ようやく学びつつある。絶望しないのが一番いいのだが、今はとにかく、不安を今すぐ解消しようとしないこと。少したてば、例え状況は何一つ変わらなくとも、相当な高確率で自分の捉え方、感じ方が変わることを忘れないこと。このことを繰り返し、自分で確かめていくしかないのだと思う。今できなくても、未来永劫できないと決まったわけではない(当たり前だがよく忘れる)。少しずつしか前進できないのは、歯痒くはあるが、仕方ない。

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