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恥についての試論:(1)恥ずかしさと勉強

学生の頃から、「恥ずかしがり屋」、そして「諦観」が自分の課題でした。変わりたいと思いながらも、悩むのは時間を無駄にすることで、他にやることがあるだろうという思いも同時にあり、考えることをずっと避けていました。

意識的に考えようと思えたきっかけは、千葉雅也さんの「ツイッター哲学 別のしかたで」の文章だったと思います。

「人生でどういう可能性を採れるかの範囲は、しばしば、何を恥ずかしいと思うか、何が自分の尊厳に抵触するか、という基準で塑形される。だが、恥と尊厳の構造は変えられる。それによって可能性の範囲が変わる。恥知らずになればいいと言いたいのではない。恥と尊厳の「一定の」構造を別のしかたにする。[2015-02-06 00:56]」
「その構造をよく分析できていない自分の尊厳をこれまでそうだったからという理由で維持すればいいというものではない。自分の尊厳を(どうやっても不完全にしかできないにしても)分析してみること。「尊厳の可塑性」を考えてみること。[2015-02-06 13:00]」
千葉雅也「ツイッター哲学 別のしかたで」河出文庫p168-169

恥と尊厳は、一旦二項対立として把握してよい。読んだ直後、それがまず印象に残りました。自分の恥と尊厳、その構造は変えることができる。恥を無くすことではなく、構造を分析した上で、別の在り方を考える。別の在り方を考えてよい。
尊厳をプライドと読み替えると、自分のプライドとは何か、その構造はどうなっているかという話になりますが、正直、イマイチ分からないのです。恥の方は、過去のエピソードを足掛かりに考え始めることができます。こう言われて恥ずかしい思いをした。場所にそぐわない言動をして恥をかいた。等々。けれど尊厳=プライドの方は、例えば他者に承認されたいということがひとつ、プライドとして考えられるわけですけが、その構造については、よく分からない。一見、恥と尊厳が表裏一体のように見えるのです。尊厳の分析が難しいのは、プライドに恥というツタが絡んで、プライドの構造が見えづらくなっているからかもしれません。

どうすれば恥と尊厳の構造を分析できるか。一人で考えて分からないのであれば、他者を頼る。身近な知り合い、職場の特に年長の方、あるいは本です。自分の書いた文章も、書いてしばらくすれば、書いていた時の自分の細かい思考など忘れてしまうわけですから、準‐他者として機能するはずです。勉強し、そして工夫しようとする。これをやめないことです。休んでもよいので、やめないことが大事です(自分への戒めとして、書いています)。

千葉雅也さん「勉強の哲学 来るべきバカになるために」では、勉強についての原理的考察(言語の道具的使用=言語偏重や、アイロニー・ユーモア・享楽で構成される勉強の三角形)、また実際どのように勉強をしていくか、勉強の実践について記されています。
第3章「決断ではなく中断」は「原理編」と「実践編」の両方の役割をもつ部分です。まずそこから一部引用します。

「わざと問題を立てることが、勉強です。問題を見ないようにしたければ、勉強することはできません。繰り返しますが、勉強とはノリが悪いことなのです。ときにそれは不快なことかもしれない。でも、わざとそれをやるのです。勉強というのは「問題意識をもつ」という、スッキリしない不快な状況をあえて楽しもう、それこそを享楽しようとすることなのです。」
千葉雅也「勉強の哲学 来たるべきバカのために増補版」文春文庫p119

「勉強をしてもキリがない」「こんなことを勉強して意味があるんだろうか」。言語と向き合うとき、どうしてもそう思うときがあります。勉強を続けていくなら、よくすれ違う隣人くらい、身近な思いです。勉強をしても理想には届かないという無力感と、いやいやきっとできるはずだという前向きな思いが同時にあり、引き裂かれる。

勉強に対する諦観は、他者に対するそれに似ています。勉強に対して時折、もう諦めたいと思うように、他者に対しても、もう分かり合えないんじゃあないか、考えるだけ無駄なんじゃないかと思うことがある。

言語を通して現実に向き合うはもう無駄だ、やめようという決断。言語を他者に置き換えると、もうあの人のことは考えない、絶交だという他者との決別。そこに至る手前に留まる必要があるだろうと思っています。留まるための工夫を真剣に考えなくてはいけません。

他者と決別する手前で、その際のところに留まり、何度でも言語に立ち返る必要がある。そのために工夫をする必要がある。そういう工夫をするために助けとなるのが、今回引用した「勉強の哲学」だと思います。


同じく「勉強の哲学」からもう一か所引用します。前半の原理編である第1章「勉強と言語ー言語偏重の人になる」の一部です。

地に足が着いていない浮いた言語をおもちゃのように使う、それが自由の条件である。
言語は、現実から切り離された可能性の世界を展開できるのです。その力を意識する。わざとらしく言語に関わる。要するに、言葉遊び的になる。このことを僕は、「言語偏重」になる、と言い表したい。
千葉雅也「勉強の哲学 来たるべきバカのために増補版」文春文庫p55

恥と尊厳の構造を分析するプロセスとして、言語遍重がひとつ通過すべきところであると思っています。
本を読んでいるときに、書いてある意味は分かるけれど、違和感があって読み進むのが億劫になるときがあり、それは自分の恥ずかしさやプライドとも関係していると思っています。文章を文章として、その内的論理に重きをおいて読む。ここでの読みは何も通読に限りませんが、何か大事そうだけれど何となく読みたくない、表紙もあまり見たくない、という感覚がたびたびあります。それは確かです。その感覚を自らで言葉にして、受けとめる必要があるでしょう。それが恥と尊厳の構造を分析することにつながるはずだと期待しています。

言語と向き合うにせよ、他者と向き合うにせよ、プロセスに時間をかける必要があります。難しい問題、課題と言ったほうが適切かもしれませんが、課題と向き合うためには、どうしても時間がかかる。この当たり前の事実を受け入れ、出来るだけショートカットしたいという考えを一旦諦める必要があります。全ての効率化が不要というわけではありません。ただ1日の間で難しい課題の答えを出すことは難しい。必ず留保される部分が残ります。時間をかけたとして、スッキリと解決するかも判然としません。それでも、その留保を飲み込んで考える必要があります。そしてそれは、諦めずに書き続ける必要があることと同じです。

そのためには、1日の間で答えを出そうと頑張り続ける、そういうことはやめなくてはいけません。眠れなくなるほど考えてしまう、あるいは反省をしてしまうのは、端的によくない。学生時代、些細なことが気になり、あそこはこう言うべきだったとか、もう少しやっておきべきことがあったなどと考えつづけて、なかなか眠れないということが多々ありました。今よりも考える体力と時間がありましたが、同じくらい羞恥心もあり、他者を頼れませんでした。

睡眠がひとつキモだと思います。学生の頃は本当に寝つきが悪かった。言語による出来事の分析に、分析の外から無理やり切れ目をいれてくれるのが睡眠です。意識の外からと言えばいいのか、自らイキんで「もう考えるのやめる!」という風ではなく、眠気に身を任せていたら自然と眠っていた、考えていたことはぼんやりとしか覚えていない、という具合が大事なのだと思います。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。恥と他者については、もう少し書きたいことがあります。折を見て書こうと思います。

(ねこやなぎ)

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