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わからなさに憤ること/書くことは難しい⑤

翌日に仕事を控えた日曜日は、何となく気分がよくありません。そして、そういう時に文章を書きたくなります。矛盾しているようですが、今回も「書くことは難しい」という内容を書きたくなったので、書いていきます。

コントロールしたいという欲求

文章を書く際、言いたいことに関する流れや、文章自体の形式によって、わたしたちの書く内容はある程度制限されます。例えば、「書くことは難しい」というタイトルの文章を書いているわたしが、ここで急に昨日の朝つくったマッシュポテトの話を始めることは、言いたいことの流れに反するわけです。読者がタイトルを読んで予想する内容からも逸れます。そして、読む方はマッシュポテトの話を読みつつ(あるいはささっと読み飛ばしつつ)、本筋の内容を頭に留めておかなくてはいけません。認知エネルギーを余計に使う必要があるわけです。処理流暢性の低い文章になってしまいます。

文章を書くとき、私たち書き手は、仮想的に読み手を作り文章を書いていきます。そして、読まれたときの文章の印象を、ある程度コントロールしたい欲求があると思っています。こう書けば、こういう反応があるだろう。こういう人に読んでもらえるかも。あるいは、変に思われない文章だろうか。という風に、読み手の印象を予想し、コントロールするために、文章を組み立て、直していくんだと思います。

このコントロールの欲求があるとき、すでに一定のアテンションを得ているコンテンツについての文章や、合理的な説明のつく文章、わかりやすい物語のある文章を書くことは、反応を予測しやすいという意味で、文章を書きやすいのだと思います。そういう文章を書くとき、もちろん書く上での難所はたくさんあると思うのですが、こと「書き始めること」については、それほど難しくないのではないかと思います。

問題は、書きたいことが入り組んで、ごちゃごちゃしているときです。書く人の中で葛藤があるようなときです。この場合、そもそも書き始めることすら、困難ではないのかと思うのです。書きたいけれど書けない。あるいは、読者の「わかりやすさ」を考えて文章を直していくと、どうしても書き進めることができない。印象をコントロールしたいという欲求をうまく満たすことができない。そんな難しい問いを抱えてしまった時、どうしたらいいんでしょう。「わからない」ことの辛さと、どう向き合えばよいのでしょう。

わからなさに憤ること

問いの「わからなさ」に対する向き合い方を考える上で、「急に具合が悪くなる」という本が参考になると思います。「偶然性」を研究してきた哲学者の宮野真生子さんが、自身の病気と向き合う中で人類学者の磯野真穂さんと出会い、偶然と必然、あるいは生と死について交わした往復書簡。それがこの「急に具合が悪くなる」という本です。

5便「不運と妖術」に、印象的な文章があります。

けれど、私たちにはそんなに唯々諾々と不運を受け入れて「腑に落とす」必要なんてあるのでしょうか。私はないと思います。わかんない、理不尽だと怒ればいい。そんなものは受け入れたくないともがけばいい。(p119)

宮野さんはこの後、
⑴合理的に見える説明形式や分かりやすい物語を提示されたとき、それを受け入れるべきだという社会的通念
⑵わからないものと対峙するしんどさ、怒り続けることの難しさ
によって、わたしたちは「わかるとされていること」にすがり、流されていく、と続けています。そして、

でも、わかる必要などないのです。(p120)

と続けています。この便(5便:不運と妖術)の宮野さんのお話は、強烈でした。5便に限らず、この本はすごい箇所だらけです。読み終えたら、今までの自分ではいられない。感想を書きたいと思いながら、でも感想を簡単に文字にしていいのかわからない。もっと言葉を尽くさないといけないと襟を正すことになる。そんな本です。いつか感想を書きたいなあと思っています。

おわりに

わからなさを含んだ問い、どう考えたらいいのかすらわからない問いを目の前にしたとき、わたしたちはどうしたら良いのか。この問いを少しだけ考えました。「わからなさに憤ること」が、この問いに向き合う一歩目だと、わたしは思っています。もし難しい問いを、かつ避けることのできない問いを抱えることになってしまっても、そしてそれがどれだけ理不尽なことでも、わたしたちは憤っていいのだと、宮野さんの言葉に思わされました。

P.S.昨日作ったマッシュポテトの写真を、一応載せておきます。



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