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過ぎ越しの祭り(ペサハ)の奇跡~子羊とキリストの贖い

福音を信じた者は、どうして「救われる」と分かるのでしょう?
福音を信じることは「神の約束」を信じたということ
アブラハムは昔、自分の子孫が星の数ほど増えるという
神の約束を信じ、それが彼の義と認められたと書かれています


救いは「行い」ではなく、信仰による

5 そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」 6 アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

創世 15:5-6

 神に「義と認められた」という事実は、普通はあり得ないこと。それは罪の報酬である死罪(ロマ6:23)を逃れ、もはや彼が死に支配されることがないことを意味します。

 ちょっと待って。アブラハムは既に死んでます……よね? もちろん、聖書にもアブラハムが墓に入ったと明記されています(創世記25:8-10)。ここで言う「アブラハムが死に支配されない」という状態には、彼が将来いつかの時点で復活させられることが暗示されています。

 アブラハムは立派な行いや素晴らしい業績を残したわけではなく、「神の約束を信じる」ことで救われました。旧約の時代からずっと、人は「神の約束を信じる」ことで神に義と認められてきたわけです。 

旧約の時代からずっと、人は「神の約束を信じる」ことで神に義と認められてきた

 その方法である「型」もしっかりとユダヤ人に伝えられました。イスラエルで毎年祝われる「過ぎ越しの祭り(ペサハ)」についてお話ししましょう。ペサハは、ユダヤ教の春の行事で(今年は4月23日~29日)、エジプトで奴隷として苦しんでいたユダヤの民を、モーセが引き連れてエジプトを脱出したことを記念する祭りです。

 モーセはエジプト王ファラオに、ユダヤの民を解放するよう訴えますが、王はユダヤの民の解放を渋ります。そこで神は、ファラオがユダヤの民を解放するまで、十の災いをエジプトに下しました。その最後の災いの時、神は扉に印がないエジプトの家に最悪の災い※をもたらすと告げました。モーセは、ユダヤ人の家の鴨居に子羊の血で赤い印をつけるよう指示しました。こうしてユダヤ人は、扉に印をつけたことで、災いを免れた、つまり「過ぎ越した」という歴史があります。これが「過ぎ越しの祭り(ペサハ)」の由来です。(※家畜を含む、すべての長子の命が奪われるという裁き)

 神がその人の罪を『過ぎ越して』くださる。その約束は今や、ユダヤ人だけでなく、異邦人にも示されています。かつてユダヤ人は子羊の血を鴨居に塗ることで死を免(まぬが)れました。反対に神の約束を信じなかった者には、災いが下り、死が臨みました。

 かつて過ぎ越しの祭りは、一年の最初の日でした。人がその約束をいつでも思い出せるよう、神はその日を『一年の最初の日』と定め、ユダヤ人はその日を必ず祝うよう命じられています。祭りの期間中、ユダヤ人は発酵食品を食することが禁止されています。パン種などを用いた発酵食品は「罪」の象徴とみなされるためです。昔も今もユダヤ人は、この祭りを祝うため、『罪の象徴となる汚れ』をすべて火に焚べて燃やします。大晦日に家中を掃除して、正月を迎える、日本の習慣と似ているかもしれません。 

過ぎ越しの祭り:英語では Passover

贖い(生贄)になるための条件とは…

 子羊の血は、イエスが十字架で流された血の『型』でした。福音を信じた者は、神の約束を信じ、十字架で流されたイエスの血によって印をつけられたことになります。この印をつけられた者は、死をまぬがれるというのが、救いの本来の意味です。 

 現代の教会が人々に「救い」を伝えられないのは、こうした過ぎ越しの祭りを単に「ユダヤ教の習慣」とみなして、教会の習慣から排除してきたからではないでしょうか。過ぎ越しの祭りは「救い」のエッセンスが詰め込まれた神からのプレゼントだったのかもしれません。そもそも神の救いの計画に、卵やウサギが入り込むスキはありません。苦笑

 さて、犠牲になる子羊には条件があります。病気も傷もないことがその条件です。罪の贖いとなる者には、罪も汚れもないことが条件なのです。イエス・キリストには、その出生においても、罪の要素が排除されていて(処女降誕)、人類史上初めて、613もある厳しいモーセの律法を順守し、人間の罪の贖いとなるための条件を満たした人物だったのです。

 律法を遵守し、純潔を守ることの報酬が『生け贄になること』とは…あまりに悲し過ぎないでしょうか。「最後までよく走り切ったね。ご褒美はこれだよ!」と提示されたものが、「生贄になる資格です!」と言われたら…。私だったら、きっと……フリーズします。苦笑 実際、イエスは予め知っていて、受肉(神が人となったこと)されたのですが…。

 黙示5章では、巻物を開くことのできる人物として、イエスが紹介されています。「天でも地でも地の下でも」相応しい人は見つかりませんでした。当然です。私たちは皆、一人残らず罪びとだから。

1 また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。 2 また私は、一人の強い御使いが「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げているのを見た。 3 しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。 4 私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。 5 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」

黙示録 5:1-5

 今日、福音を信じるなら、今日が貴方のペサハ。ずっと昔、旧約の時代から、イエスの十字架による救いは、神によって明示されていたのです。皆さま、良いペサハ(過ぎ越し)をお迎えください。 

参考:
過ぎ越しの祭り(日本語)Wikipedia
Passover Wikipedia

引用:
聖書 新改訳2017 ©2017 新日本聖書刊行会

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