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日記(2018年8月12日):『別府倫太郎』と梨の話


梨の話をしたい。果物の梨。お盆の時期に、仏壇によく備えられる梨。しゃりっとしていて、甘い、梨。そのためにはまず、昨日めくった本の作者について、ぜひ、少しお話したいことがある。

昨日、変な時間に仮眠をとってしまったせいで、夜中に眠れなくなってしまった。動画サイトやネトフリを徘徊したけれど、眠くもならないし、落ち着かない。ベッドの上で、次から次へと、色々な感情や衝動が生まれる。けれど夜中だし、実行に移すにも気が重く、それらは生まれてはすぐ消えていった。今もあまり思い出せない。

ふと、別府倫太郎くん(さん、といったほうがいいのだろうか、わからない。)の本が読みたくなり、『別府倫太郎』(別府倫太郎著、文藝春秋、2017年。)をぱらぱらとめくった。


彼は、新潟県十日町市出身、在住の作家だ。2002年生まれ。14歳で『別府倫太郎』を出版している。小児ネフローゼであること、脱毛症で全身の毛がないということも語っており、学校に行かないという選択をしたのちに、別府新聞というWeb新聞を立ち上げ、自身で執筆や取材を行っている。トップページには、筆で書かれた文字で、「別府新聞は、『ワクワクできる、ドキドキできる、泣き泣きできる、爆笑できる』そんな新聞です」とある。素朴で素敵なコピーだ。

彼のことをはじめて知ったのは、大学2、3年生の生涯学習の講義だった。「学校に行くことはどういうことか」「学ぶということは学校でないとできないのだろうか」というようなテーマの講義で、彼についての特集番組を視聴した。学校に行かずに、自分で学び、書き、考え、対話する姿は、私には眩しく映った。

また、それだけではなく、彼の文章を読んでいて、自分の思想に正直でいる気持ちや、病気のことだけを押し出すのでもなく、引くこともない、という姿勢が、いいな、と思った。

「何を伝えるということではなく、つねに、川のように色々と変わっていくということです。その『変化』も、楽しんでいただければと思います。」(http://www.beppusinbun.com/index.html より引用)


「この私の本も気がつけば、一つ一つの過程を通ってきました。初めは、髪の毛の無いこと、不登校のこと、病気のことを押し出して本を作らなきゃいけないと思っていました。けれど、辿り着いたのは今の形でした。押し出すこともなく、それでわざと引きすぎることもないということです。」(http://bunshun.jp/articles/-/1724 より引用)


長く生きていると、(といっても、私はまだ20数年しか生きていないけれど)いろいろなしがらみや属性が生まれてくる。

私自身、性別、階級、職業、セクシュアリティ、人種、身体性、国内だったら、東京出身か地方出身か、とか、それから、自分が何か「疾患」と言われるものの当事者であるということとか、そういうものを意識してしまうときや、意識せざるをえない時もある。

何かを主張するためには、あえて戦略的にそういうものを押し出す必要だってある。


けれども、彼のフラットさはとても大切なことだなと思う。属性だけでその人自身は語れないから。属性だけでその人を見ることもしたくないから。属性だけで、あなたやわたしは表せないから。


彼の文章を読んでいると、言い知れない安心のようなものを感じる。「瑞々しい感性」とか「本質をつく言葉たち」とか、それらしい感想は出るけれど、私にはなんだかしっくりこない。

今言えるのは、ただ安心感のようなもの。


変な虚栄心や、何かと比べる気持ちや、そういうことを感じずに、読める。まっさらな自分の部分を、大切にできるような気がする。

それでいて、じゃあ純粋な、ピュアな気持ちなのかと言われればそういうことでもない気がする。自分の心の奥の気持ちに正直になれるような気分がする。(梨木果歩の文章を読んでいても、そんな気持ちになれるのだが、なぜだかわからない。ただ、何か共通する静謐さがあるのだろう。この気持ちや、別府や梨木の文章や思想が自分にとって心地よさを感じることについて言語化するには、私には時間が必要だ。)


昨日の夜、私は彼の「四つのみかん」という短いエッセイを読んだ。学校に行っていないけれど、卒業文集を書く必要があり、母に見せたら、「漢字が間違っている」と言われ、ひねくれてしまった。漢字ができないのは、学校に行っていないからである。母と言い合いになり、バトルをし、その最中に、じいちゃんが何も言わず、みかんを置いて行ってくれた。その「嬉しさ」を置いて行ってくれるところが心地いい。

というような内容で、私は純粋に心がほっかりとした。

(本文ではなく大変拙い要約であることがもどかしいが、ぜひ本文を読んでもらえたらと思う)

今日、私はスーパーで梨を買った。スーパーにはたくさんの家族連れがいた。お盆だからだろうか。私は帰宅してから、とあるインタビュー調査の文字起こしをしなくてはならなかった。けれども、そのファイルはあまりにも雑音が多すぎて、調査協力者の声が聞こえづらかった。大事な調査の音源が、聞き取れない。貴重な語りの音源が、人生の語りが、聞き取れない。

私はこのことにひどく苛立ち、部屋で一人呻き、空のペットボトルやイヤホンや、眼鏡を部屋の床に投げつけ、モノにあたった。(本当にどうしようもなくて、困ったのだ)

とりあえず食事をとってみたが、おいしくない。どうしようもなくなって、買ってきた梨を剥いて、食べた。そのとき、私の苛立ちは不思議と消えた。梨のみずみずしさと甘さと、冷蔵庫で冷えていたから冷たさと、なんだか梨にすごく癒されたのだ。

同時に思い出したのは、実家でいつも梨を剥いてくれていた祖母の手だった。梨や林檎を食べるとき、祖母は綺麗に皮をむき、8等分してくれる。梨の甘さと、そんな記憶が、私の苛立ちを沈めてくれた。

昨日、彼のみかんについてのエッセイを読んだときは、単純に心がほんわりしただけだったけれど、彼の気持ちに、少し近づけたような気がした。不思議な感覚だった。

自分の感性や感情に素直でいることや、自分の心にフラットでいることって、すごく難しいと思う。そういう風にできないことも、大人になっていったらたくさんあると思う。でも、出来る限り、そういう気持ちを大切にしたいと思った。


明日、私は帰省する予定だ。祖母や両親と一緒に梨を食べようか。梨でなくてもいいか。みかんでも。ぶどうでも。帰省してもすぐに飽きてしまうんだけれど、一緒に果物を食べる時間があれば、いいかもしれない。


なんだか、何が言いたいのかわからなくなってしまった。はちゃめちゃな文章を、読んでくれてありがとうございます。

良いお盆を、良い夏休みを、良い夜を。

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