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『時は老いをいそぐ』 アントニオ・タブッキ


老いと人生の物語。
ひとつの生を生き、後ろに伸びる過去の道を振り返る時に、人は何を思うのか。
タブッキの作品は全てそうだが、この本も、何度も読んで、繰り返し読むことでゆっくりと吸収していきたい一冊だ。

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『亡者を食卓に』は、東ドイツの諜報部員だった男が、過去に囚われて生きる孤独な老人となり街を彷徨う物語。誰に打ち明けることもなく彼が心に抱えている秘密が苦い。
読み終わった時に自分の心が泣いているのを感じた。

『将軍たちの再会』は、真逆の読後感と言っていいものだった。
ハンガリー動乱で敵同士として対峙した二人の将校。ハンガリーの将校はレジスタンスに加わったとして有罪となり、その有罪を決定づけたのが、もう一方のソ連軍将校による報告書だった。
時が経ち、モスクワで再会した二人は、他愛ない話をしながらチェスに興じ、連れ立って町を歩く。

たぶん信じてもらえないだろうけれど、いまでも、あのモスクワでの日々がわたしの人生で最良のひとときだったと思ってるんだ。

最後のこの一文に、またもや心が泣いた。今度は温かいものに包まれて。


本書の3話目と4話目であるこれら二つの物語を続けて読んだ後に、ふと、1話目の『円』にあったこの文章が蘇った。

物事というのは、考えて、望みさえすれば自分の望んだように存在するものだし、そうすれば物事は自分で導くことができる。そうしないと物事のほうに主導権を握られてしまう。・・・でも物事の一切を導くものはなに?

不幸を捉えて苦い味をかみしめるのも自分。更新されていく世界で今を最善に生きようとするのも自分。
しかしそんな自分の心も、何かに導かれているのだろうか。

そんな考えがじんわりと回り、円のように繋がる。「円になって回る」という1話目に登場する鮮烈なイメージがそこに重なった。

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東欧の重い歴史を文字通りサバイブしてきた老人たちの物語に挟まれて置かれている『風に恋して』という掌編は、フェリーニの映画のような情景が美しい。
最終話の『いきちがい』は、インド夜想曲やレクイエムを思い出させる幻想的な展開が、これぞタブッキという読感だ。

一話一話、読み終わるたびにため息が声に出た。読み終わったばかりでもう、次の再読が楽しみになる。やはりタブッキは特別な作家だ。


★★卍丸さんが、本書に関するこのような素敵な文章を書かれています。
同じものを読んでも彼が感想を書くとこうなる。とても美しい記事です。

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