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『夏草の記憶』 トマス・H・クック

痛ましく残酷な、青春の愛の物語である。

南部の田舎町で、地元の医師として敬愛されているベン。しかし、穏やかな中年医師の顔からはうかがい知れない深い闇を、その心は抱えている。
妻にも親友ルークにも告げることのできない、ベンの胸に秘めた大きな重荷は、青春時代に起きたある出来事に関するものだ。

ベンがハイスクールの2年生の時、北部の大都会ボルティモアから、一人の転校生がやって来た。
浅黒い肌と黒い巻き毛を持つ美しい娘、ケリー。
どこか近寄り難い雰囲気を纏うケリーだが、ベンは彼女と二人で学校新聞発行の担当者になったことで、その距離を縮め、いつしか狂おしいまでの恋心を抱くようになる。
聡明で意欲的なケリーは、やがて黒人の解放運動に興味を持ち、離れた町のデモ活動を見に行ったり、地元の歴史も調べて啓発的な記事を書きはじめた。
よその土地からの移住者などほとんどいない南部の小さな町に北部からやって来たというだけで特別な存在として見られていたケリーだが、その取り組みでさらに存在感が増す。
一部の保守的な教師から反論を受けたりはするももの、生徒はおおむねケリーに同調的であり、ハイスクールのスターである男子生徒もケリーにのめり込むまでになる。
そんな中ベンは、ケリーに対する想いを募らせながら、そしてケリーからの好意も感じながら、勇気のなさゆえか青年らしい自意識ゆえか、もう一歩先へ進む決定打を打てずにいたのだが、やがて彼の気持ちは絶望と激しい嫉妬へと変貌していくことになり。。。

そうして学年の終わりも間近のある夏の日に、痛ましい事件は起きる。
町中から離れた山の中で、ケリーが何者かに襲われ、頭部を激しく強打された状態で倒れているのが発見されるのだ。

当時を振り返り、もっとも強烈に思い出されることは、まぶしいほどの活気だ。ケリーは実に生き生きとしていた。ことに、最後の数日間は、まるで身体から火花が飛び散るのが見えるような気がしたほどだ。

まぶしいほどの青春の光は、電球を割るように突然、暴力的に消されてしまう。そしてこの事件は、若者達の人生を、決定的に変えてしまった。
輝かしい未来を永遠に閉ざされたケリーはもちろんのこと、学校のスターも、その恋人である女神のような美女も、ケリーを慕っていた屈託のないほがらかな少女も、その数十年後の姿は、ハイスクール時代のしなやかに輝いた姿からは到底想像できないものになってしまっている。

そして中年になったベンは、この事件に関して誰も知らない真実を一人胸に抱えて生きている。
何かに気づいているルークにさぐりをいれられつつ、はぐらかし続けるベン。そこに感じられるのは、悪意や保身ではない、何かもっと深く悲しいものだ。
事件を調べた保安官や、ケリーに目をかけていた国語教師から言葉にしない糾弾、疑問を浴びせ続けられながら、彼は誰かに打ち明けて心の荷を下ろすこともしない。
その真実とは何なのか、読者にも明かされないまま、ひたひたと立ちこめる悲哀とやるかたなさの中、ベンの胸中と過去への回想が布を織るように絡み合っていく。

廃校となったまま打ち捨てられているハイスクールの旧校舎を眺めるシーンが何度か登場するのが印象的だ。
生まれ育った土地から離れて生活をしている場合、久しぶりに故郷を訪れると、思い出深い場所を見てふいに過去の記憶がフラッシュバックして来ることがある。しかしそれは遠い記憶の底からの模糊としたイメージであり、記憶と現実の景色に乖離があったり、「あれ、ここはこんな感じだったっけな」というような不確かさがあるものだ。
しかし同じ土地にずっと暮らし続けているとなると、記憶と現実の景色は乖離することはない。その記憶が深く忘れ難いものであればあるほど、その景色を目にするたび、常にその記憶を再生し続けて暮らすことになる。かつて美しく輝いていたものが生気を失い変わり果てた姿になるまでを見届けることになる。
・・・ささいな事がきっかけで人生が思いもよらない方向に変わってしまい、一度受けた大きな衝撃は後々まで永遠に消えない。
ベンの日々の生活で目に入る風景、出会う人々の全てが、そのメッセージを痛烈に送り続けている。


ベンが繰り返し反芻し、事あるごとに鮮やかに蘇る記憶に責め苛まれながらも、胸の内にひた隠し続けていた真実は、終盤になって鮮やかな展開で明かされていく。
読者はそこで、とんでもないミスリードをされていたことを知るのだ。それもひとつではなく。

青春のひたむきで不器用な恋が、いつどこで禍々しい犯罪と結びついてしまったのか。
ふとしたきっかけで硬くなった心、鬱々とした心、若者の衝動性。それらに取り憑き支配してしまう残忍な感情の危うさ。
明かされる真実は、打たれるような衝撃と虚脱感をもたらす。
あまりにも切なく救いのない物語だ。
それにも関わらず、どこか甘美な味わいがあるのは、青春の盛りの若者達の輝かしい描写と、生涯をかけて否応なく誰かを愛してしまう心の哀しい美しさゆえだろうか。

苦しく切ない青春ミステリー。またいつか読み返したい一冊だ。