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『誕生日』 カルロス・フエンテス

難解な書である。
講釈されるのを拒む本だ。
読み手が密やかに行う解釈すら、あちらに曲がりこちらに飛んで、一貫させることは不可能に思われる。

物語の始まりは以下のような情景だ。
窓という窓がレンガで塞がれた、床は石畳の陰鬱な部屋。椅子に座る修道服の老人。部屋の隅では、呆けた身重の女が歌を口づさむ。
暗澹として寒々しい光景。

と、場面は切り替わり、目覚まし時計で目を覚ます夫婦の朝のシーンに。
今日は息子の誕生日らしい。
「今日は早く帰ってきて。誕生パーティーは六時からよ。くれぐれも遅れないようにね」
「そんなむちゃな。夜にならないと戻れないさ」
「子どもの身にもなってよ。がっかりさせる気?」
という忙しない夫婦の会話。

とまた場面は切り替わり、先の老人と女のいる部屋に戻ったかと思うと、今度は新たな、一人称「わたし」の目に映る光景へと場面が飛ぶ。
「わたし」は記憶喪失めいた状態にあり、目の前には水平服の男の子と黒い服の女がいる。そしてどうやら「わたし」の姿を見ることができるのは男の子だけらしい。

家じゅうどこを歩き回ってもかまわないけど、絶対ドアは開けちゃだめ。絶対だめだよ!

ここはどこなのか。なぜ自分はここにいるのか。謎に包まれたまま、「わたし」は自分の置かれている家の中を彷徨うのだが、その家にあるのは、土も陽光もないのにゼラニウムやヤナギが旺盛に育つ中庭や、一世代前の古いおもちゃが寄せ集められた子供部屋。

もし、元の世界へ戻ることがあったら、その場所のことがわかるだろうか?果たして、あちら側ではこちらのこともわかるだろうか?

迷宮に迷い込むような小説だ。
迷宮、いや、悪夢と言った方が良いかもしれない。
謎の少年は底知れない悪意を持ち、黒衣の女を虐げる一方で、自傷して血を流す。
そして、不可解な言動で「わたし」を導き、ショッキングな光景を見せて「わたし」の記憶を呼び覚ます。
悪夢と謎が渦巻く中で、女もまた語り出し、やがて「わたし」の世界に、冒頭シーンの老人、妊婦、そしてジョージが溶け込んでくる。

わたしと彼が、彼とわたしとジョージが、入り乱れ、混じり合い、混沌の中で息もつかせぬまま、小説はラストまで読者を飲み込んでいく。
そこに語られるのは輪廻か、人間批判か、四次元の知覚か。それもまた、解釈は無限だ。すべての解釈は読者に委ねられる。

文体も内容も、万人受けからは程遠い。
キリスト教的には冒瀆的と感じられそうな記述もある。
混沌に翻弄されて船酔いに似た感覚に襲われるし、物語に置いてきぼりを食うこともたびたびだ。
だが不思議と、憑かれたように文章を追ってしまうのだ。

読んでほしいと言える本ではないが、物凄い本だとは言いたい。覚悟のある読書家は、果敢に挑んでみてほしい。


※巻末に、著者が敬愛していたという詩人・批評家オクタビオ・パスの詩がいくつか掲載されている。本文を読んだ後で読むと、とても味わい深かった。
パスがインドのデリーについて書いた『バルコニー』から一部をここに抜粋する。

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高さでも 暗さでも 月夜のせいでもなく
見たところ無限でもない
それは 町の記憶とそれに伴う眩暈
この目に映るもの
回っているものは
いずれも待ち伏せ 罠であり
背後には何もない
あるのは月日とそれに伴う混乱

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