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『壁の向こうへ続く道』 シャーリイ・ジャクスン

ごく平凡に見える世界が、近寄ってよく見てみたら、とんでもなく異常な世界だった。
そんな、「ほんとは怖い普通の世界」を描いて異彩を放つ、じんわりホラーの旗手シャーリイ・ジャクスンの長編小説。
長編小説、しかも群像劇ということで、シンプルな構成の短編小説が多いジャクスンにしては珍しいタイプの作品だ。

時は1930年台。カリフォルニア州郊外の小規模な住宅地が物語の舞台であり、そこに住む人々が登場人物である。

この住宅地の住民の多くは比較的裕福な中流家庭だが、中には父親のいない家族や、暗黙の差別によりコミュニティから疎外されている家もある。

・メリアム家の主婦は神経質で高圧的。その娘ハリエットは肥満体でいつもおどおどしている。
・借家に住むウィリアムズ家は母子家庭。長女ヘレンはませたすれっからしで、女子グループのリーダー。
・ユダヤ人一家のパールマン家には一人娘マリリンがいるが、いつも孤独で女子グループには入っていない。

例えばそんな、言ってしまえばどこにでもありがちな家族が11家族、通りを挟んで向かい合う形で家を並べている。

どこにでもありがちなのだがそこはシャーリイ・ジャクスン、彼ら一人一人に焦点を当てれば炙り出されてくる嫌な部分を逃さない。
どこにでもいそうな人間の底意地の悪さ、いやらしさを描く筆致は、あっぱれジャクスン女史なのである。

いちばん怖い人物だと思ったのは、リリアンという女性だ。姉夫婦の家に身を寄せる病身の妹というキャラクターながら、その中身には計り知れない憎悪と屈折がうかがわれる。やたらと甘ったるい姉との会話や義兄への妙な執着が気持ち悪い。
近所の少女へのネチネチ意地悪な絡みではその気味の悪い性格が炸裂していてぞぞっとした。

害のないオールドミスに見えるミス・フィールディングも曲者で、隣の少女が、知的障害のある妹が行方不明だと助けを求めて来ていても、彼女の頭にあるのはキッチンでポットに淹れた紅茶が苦くなってしまうということだけで、この少女のせいで紅茶が台無しになったと本気で根に持つ。控え目な顔の下にかなり嫌な心根を持つ人物である。

このように、あちらこちらでドス黒さを発揮する女性たちとはまるで対照的に、一様に弱々しく覇気のないのが男性陣だ。
彼らは家の中でも外でも、当たり障りのない言動しかしないし、無個性的で、この住宅地の夫達の誰と誰が入れ替わっても、大して違いはないだろうと思わせるほどだ。
この男達の無個性無力ぶりも、作者の何かしらの意図があるのだろうと、興味深く感じる。

以下に引用するパートは、そんな共同体の根底に流れる、人々の臆病な抜け目なさを端的に表していてうすら寒い。

だれもかれもが用心深い態度で、目の前の出来事に気づいていないふりをしていた。この状況をしっかり消化し、それぞれの親とよく話し合い、ご近所会議で噂をもとにした最終判断が下されるまでは、だれも、断定的な言葉を進んで口にすることはないし、遠慮のない笑顔を見せることさえしない。なにはともあれ、そうしておけば、たぶん間違いはない。

なんの異常性も持たない普通の人々の集団が持つ窒息させるような澱んだ空気。
そんな、閉じた共同体の息苦しさを濃厚に漂わせながら進む物語は、ラストでおぞましい展開を見せる。
とはいえ、そこで私達を恐怖させるのは、その衝撃的な出来事ではなく、あくまで、それを取り巻く彼ら普通の人間達の、悪とも罪とも言えない思考言動の、怖さ、嫌さなのである。

作者の他の多くの作品で「普通に潜む異常」が描かれているとしたら、この作品では、普通そのもの、異常の潜まない普通が持つ恐ろしさが描かれているように思える。

ある種の強烈な興奮が、その場の空気を支配していた。パールマン夫人はマリリンの背後で「なんて、かわいそうな人かしら」と感傷的につぶやき、ドナルド夫人は「もっと早くに気づいてさえいたら」という文句をくり返していたが、集まった人々のなかで、キャロライン・デズモンドが無事に戻ってくることを心の底から願っている者は、ひとりもいなかった。彼らの心を一番に占めているのは、喜びの感情だった。なぜなら、今夜のこの恐怖、生存競争の非情な指先は、明かりがともる自分たちの安全な家のすぐそばに迫って、自分たちに触れそうになっていたのに、どの家の安全も脅かすことなく、立ち去っていったのだから。そう、たったひとつの家を除いて。苦痛によってもたらされる、激しい快楽がある。だからこそ、苦悩するデズモンド氏の姿を、彼らは貪欲な目で見つめ、そのあと、罪悪感に駆られて視線をそらした。

小説は、数人の登場人物による定点シーンの連続から成り、上演されている舞台を観ているような読み心地だ。そう思って見ると、最初のページに載っている住宅地の見取り図も、書き割りのように見えて面白い。
舞台を観るように群像劇を読み、ほんのり人間嫌いになりそうになりつつ、「でもこれはあくまで物語だからね」と、幕が降りたことにホッとしたい。
自分の周りの世界はこの舞台とは違うと信じつつ。

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