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『穴の町』 ショーン・プレスコット


乾いて埃っぽく寂寥とした風のような小説だ。どこかの荒野から吹いてきて、どこかへ吹き去っていく。

オーストラリア中西部の、歴史も特徴もない町に、どこからかやって来た主人公。彼は、スーパーマーケットのウールワースで働きながら、「消えゆく町々」についての本を書いている。

主人公が住み着いたその町は、ショッピングプラザと、マクドナルドやピザハットといったチェーン店がメインの、どこにでもありそうな特徴のない町なのだが、どこか活気がなく、閉塞感が漂う。

町の住人たちは、とにかく無気力だ。
バスの運転手トム。
パブを経営するジェニー。
日がなスーパーをうろつく無職のリック。
主人公がこの町で知り合いになる人々は皆、諦めたように、あるいは不貞腐れたように、単調な日々を送り、その生活や町から抜け出すことに関しては、頑ななまでに後ろ向きだ。

町にたった一台運行されているバスは、もう数年間客を乗せたことがない。「町にはバス路線がなくてはいけないから、バスがある」ということらしく、運転手トムは従順に、毎日同じコースをひたすら走っている。

町には幹線道路が通っているが、町を出てその道を西に、都市に向かって行く者はいない。またはそうしようとした者は、死んだりする。

またここには鉄道の駅がひとつあるが、そこを発着する列車はなく、駅は鉄道資料館になっている。その資料館というのも名ばかりで、実のところは、地元の美術工芸品の展示場件販売所だ。
そもそもこの駅から出ている線路がどこかへ続いているのかも怪しい。毎日一回、貨物列車が通過するが、これも果たして本当にどこかに向かっているのか、もはや謎の幽霊列車のようなものである。

この線路沿いを歩くという試みに出た一団を、パブを経営するジェニーは「町でいちばんのばか」と言う。

ジェニーは町でいちばんのばか者たちがどうなったのか知らないし、仮説を立ててもいなかった。野外でキャンプして家に帰ってきたっていうのが最高のシナリオかな、と彼女は言った。そもそも離れる必要なかったのよ、家をね。

町の人々の閉塞感もすさまじいが、そもそもどこかから来たはずの主人公自体の、来し方もあやしげだ。

ぼくはたしかにどこかから来たはずだが、それはどこだ?もう少しですっかり思い出せそうな、どこかの曲がり角近くの記憶はある。陰は覚えているのに形は覚えておらず、感覚は覚えているのに場所は覚えていなかった。

なんだか夢から出てきたような話である。


登場する人々の中で、異彩を放つのは、シアラという少女。
孤高のニヒリストなのか、逆に夢追い人なのか、あるいは精神を病んでいるのかよく分からないが、彼女だけは意志のある行動をしており、誰も聞かないラジオ放送を続け、存在しないバンドの架空のコンサートの宣伝をするポスターを町中に貼り続けている。

ウールワースで働き、消えゆく町の本を書き、シアラの活動を手伝いながら暮らす主人公。
そんなある日、町に穴が出現する。

穴よりも欠如と呼ぶのがふさわしく、黒色でも暗色でもなく、ほかのどんな色合いも帯びていない。世界の一部分がどうやら消えてしまったようだった。

穴/欠如は拡大し、何人もの人々がそこへ飛び込むように消えて行くようになり、とうとう主人公とシアラは、町を出て都市に向かう決心をする。

物語の終盤、二人はシドニーを思わせる、海岸沿いの都市にたどり着く。
そこでシアラは自分の居場所を見つけたようにも見えるが、果たして本当にそうなのか。
そして結局その都市も後にする主人公は、どこへ向かうのか。

メインプロットを肉付けするように、奇妙なエピソードが随所に散らばる。
物悲しかったり悪夢のようだったりするいびつなエピソードは、癖になる味わいだ。
また、シアラが作るロックコンサートのポスターの絵や、地中から発掘した雑誌に掲載されている写真など、インパクトのあるビジュアルが、結局最後まで腑に落ちるような説明のないまま放置されるのも面白い。

作者が音楽雑誌の編集をしていただけあって、物語でも音楽がポイントになっている。アンビエントミュージックや暗いプログレッシブロックなど流しながら読むと気分が盛り上がるかもしれない。

本の帯には「カフカ、カルヴィーノの系譜を継ぐ」とあったが、私は、この小説の乾いた空気と、漂う暴力の気配に、ポール・オースターやスティーブン・キングに通じるものを感じた。
主人公の人物像もどことなくポール・オースター的な気がする。

また余談だが、地下室の床(と、主人公の手の平!)に穴ができる、『虚ろな穴』(キャシー・コージャ)という怖い小説も思い出した。

奇妙な味わいの小説が好きな方におすすめだ。