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『ホットミルク』 デボラ・レヴィ

塩気を含んだ暑く気だるい空気。
永遠に続くような午後の日差し。
子供が叫んだスペイン語が、風に乗って響く。
作品に満ちているそんな情緒にそぐわず、内容はシビアだ。

25歳のソフィーは、原因不明の脚の不調を抱える母に付き添い、病院のある南スペインに滞在している。
そこでソフィーは母を連れて病院に通い、空いた時間には海で泳ぎ、知り合ったドイツ人女性と恋に落ちる。

舞台は灼熱のビーチサイドなのだが、年末に読むのにふさわしい本だと感じた。
一年分の疲れをうっすらと溜めた体を急がしく動かしながら、頭の中には、今年もやらずに終わったことや、先送りにしていることなどがぼんやりと浮かんで来る。そんな年末の、少しだけ重たく落ち着かない気分と、共鳴する気配のある小説だからだ。

というのも、主人公ソフィーは、母の看病ということ以外にも、様々な持ち越し状態の問題を抱えているのだ。
それは、人類学の学位を持ちながらもちゃんとした仕事がなく、その場しのぎのウェイトレスをしていて、それを恥ずかしく思っていることや、イギリス人の母とギリシャ人の父を持つというアイデンティティーの複雑さ、また、幼い頃に自分の元を去った父親へのモヤモヤした感情など。
ソフィーの独白からも、鬱々とした心情が浮かび上がっている。

私はいつもまわりの人たちを喜ばせようとしてきたけれど、自分自身の人生を考えてみれば、一体どこに辿り着いた?それがここだ。ここで嘆いている。

中でも際立つ問題が、母親との共依存関係である。
「母に対する私の愛は斧のよう」という言葉が、作中に繰り返し登場する。
ソフィーの人生は母親に振り回されているように見えて、実はソフィーこそ、母親に対する深い依存を抱えているようだ。
自分の献身にも関わらず、母親が「脚を切る」などと自暴自棄な発言をし、医者からも見放されそうだとなった時に、ほとばしる彼女の心の叫びが痛い。

彼女は私の母親。彼女の脚は私の脚。彼女の痛みは私の痛み。私は彼女にとっての唯一無二の存在で、彼女は私にとっての唯一無二の存在。どうか、どうか、どうか。

母との心の関係がバランスを崩しそうな今、ソフィーはどんな決断をするのか。


さらに、同性への恋愛感情という初めての経験は、ソフィーの性的アイデンティティーにも揺さぶりをかける。
相手のドイツ女性は、作品中最も光を放つ存在感がある人物だ。
白いコットンのワンピースや背中が大きくあいた赤いイブニングドレス、グラディエーターのようなサンダルなど、登場シーンごとの服装もインパクトを残す。
そんな彼女に感情を乱されながらも、そこにある真実に気づいていくソフィーの変化は、もう一つの読みどころである。

そして、もう一人の重要人物が、母親の主治医。
軽薄かつ高圧的な言動をする人物で、人好きのするキャラクターではない。彼自身の闇も深そうだ。
しかし母娘の病理を見抜き、2人を救い出そうとする、最もヒーロー的な存在なのは彼なのである。

きみはお母さんを、自分の人生を築く事から身を守るための盾として利用しているよね。・・・よく聞くんだ!君は別の人生を考えないといけない

戸惑い、逡巡しながらも、ソフィーは自分の心の声を聞こうとし、自分ではめていた枷を外していく。

こんなふうに生きてはいられない。あらゆることにおいて、ブレーカーのスイッチを下ろさなくちゃならない。

彼女の一夏の物語が迎えるラストは、ほのかな曙のようだ。
ソフィーの前途にはまだまだ乗り越えなければならない障壁が現れることだろう。だが、彼女はきっと大丈夫。
人生はそうやって続いていくのだから。

「年末」・「年始」だとか、一年の計は、だとか言うけれど、実際にそこで終了、切断、初登場する何物かがあるわけではない。現実としては、時は途切れ目なく流れているだけだ。
それでも人はあえてそこに区切りを置こうとする。365日という時間を振り返り、総浚いし、先に続く日々に向けて、気持ちを新しくしようと思う。
そんな年の瀬。
自分を見つめ、区切りをつけたソフィーの物語が、新しい年を目前にした私の背中を押してくれた気がする。

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