『JR上野駅公園口』 柳美里
上野公園に暮らす、あるホームレスの物語。
この物語はフィクションだが、そのモデルとなるホームレス達は、今も実際にそこに生活している。
当然だが、彼らは初めから路上に生まれたわけではない。彼らの家のない人生は生まれた時から始まっていたものではない。
この世に生を受けて名付けられ、家族と暮らす家があり、学校、仕事、兄弟、恋愛、喜びがあった普通の人生。
その、どこに路上との接点が生まれ、ブルーシートの奥に身を置くに至ったのか。
その物語を、私たちはあえて知ることなく、もっと言うなら知ることを怖がって避けて、自分の人生を暮らしている。
この小説に描かれるのは、そんな、私たちがあえて見ることを避ける、ブルーシートの中の人生のひとつである。
主人公は昭和8年生まれ。
福島の田舎の貧しい家に生まれ、ものごころ付いた頃には戦争が始まっていた。出征すら逃れたものの、貧困と食糧難とで、出稼ぎでやっと家族の生活を支える生活が続く。
東京オリンピックに向けた土木工事の仕事のために初めて上京。日曜祝日も働いた。
その後も住み込みの建築作業の仕事を続け、20年を経て帰郷。福島ではすでに孫が10代になっていた。
国民年金もあるし、妻と二人、ようやく人生に一息つけるだろう。。。
だが、数年後、彼は再び上野に戻り、その老後は福島の家族の元ではなく、上野公園のブルーシートのかかった「コヤ」で送られることになる。
子供と情を深めることができなかった悔やみや、胸を抉るような悲しい出来事。
主人公の人生は読んでいても心が曇るほど物悲しい。運命の翻弄、哀しい転落、などの言葉を当てはめることもできるだろう。
だが、この小説が描いているのは、主人公に何が起きたか、ということや、人生の転落模様などではない、と私は思う。
その流れは、転落というにはあまりに自然だ。
過去と現在のつながり。
家のない者と家のある者のつながり。
貴と忌のつながり。
本書が私たちに見せるのは、場所、時間、出来事を介した、「つながり」であるように、私には感じられる。
時折挟まれる、上野公園を訪れた人々の日常的な会話の断片が、彼らとホームレスたちとの対比を浮き上がらせる。
ホームレスと家を持つ人々。
彼らの間には断絶があるのか、それとも断絶があるように見えて、彼らは地続きなのか。
終盤に、天皇皇后両陛下が御料車で登場する場面がある。
昭和8年生まれの主人公は、平成天皇陛下と同い年なのである。
そして、主人公の息子は、奇しくも、当時の皇太子殿下(現天皇陛下)と同じ日に誕生している。
御料車を前に自分の人生がフラッシュバックし、主人公の涙が込み上げる。
じんわりと揺さぶられるシーンである。
著者の長期にわたる綿密な取材による、上野公園のホームレスを取り巻く実情もまた、読んで学ぶことが多い。
彼らと私たちは、同じ日本に生きているのである。