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『渚にて 人類最後の日』 ネヴィル・シュート

悲しく救いのない終末小説。しかし、ここまで救いがないにも関わらずこんなにも美しく、穏やかに凪いだ読後感を与える小説が、他にあるだろうか。


物語の舞台設定は1963年。この小説の初版は1957年なので、近未来というよりも同時代を描いたフィクションだ。
60年代初頭に起きた第三次世界大戦で核戦争が勃発し、核爆弾によって地球の北半球は壊滅状態になった。
今は南半球に位置する国だけで、かろうじて人間が生きているが、放射性の降下物の前線は徐々に南下しており、いずれ世界全体が汚染されることは確定している。

舞台はオーストラリア南部メルボルンとその郊外。ここでは現状はまだ通常の生活が営めているものの、北部のどこどこの都市はもうダメらしいというような噂がどこからともなく流れ、人々は現実味のないまま漠とした不安を募らせている。
ガソリンの供給が途絶えてしまったため、個人の移動手段も自転車か馬車だ。

オーストラリア海軍は、停泊中のアメリカの潜水艦スコーピオンを、科学的調査及び生存者確認のために北側へ派遣する事を決める。
艦長はアメリカ海軍のタワーズ。連絡士官としてオーストラリア海軍少佐のホームズが、調査班としては科学者のオズボーンが乗り込む。

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スコーピオンの絶望的な調査航行を中心として進む物語の中で描かれるのは、乗組員の彼らとその家族や関わり合う人々が最後の日々を生きていく姿だ。

妻と2人の幼い子供をアメリカに残して来ているタワーズは、ホームズの紹介で地元の若い女性モイラと出会い、心を通わせ合うが、家族を想う気持ちは強く持ち続けている。
状況を考えるならば、アメリカに残してきた家族が今も無事で彼の帰りを待っているということはありえない。しかしタワーズが自然と思い浮かべるのは、平穏な生活を続けている妻と子供達の姿であり、任務を終えて彼らの待つ家へと帰る自分の姿である。あまりに現実味のない現実の中で、そう考える以外にやりようがなく、またそう考えるままでいることだけが彼を絶望から遠ざけてくれているのだ。

同じように、町に暮らす人々も皆、普通の日常を続けている。彼らは次の収穫のために畑を耕し、数年後の綺麗な花壇を想像して花の球根を植え、長く続けられる仕事に就くために簿記やタイピングの学校に通う。あたかも未来が、数年先が存在しているかのように。
しかしまた一方で、彼らは心の片隅で「終わり」がそこにあるのを見つめ続けているのだ。
バーやクラブでは酒好きがせっせと稀少なボトルを開けている。マス釣りの解禁日は前倒しされ、南半球最大のレースイベントであるオーストリア・グランプリの開催日も早められた。
そして、薬局には、“そのとき”が来たら“終わらせる”ための薬が、市民に配布されるのを待って大量に保管されている。

「わたしオーストラリアの外へ一度も出ないで一生を終えてしまうのよ。死ぬまでにパリのリュ・ド・リヴォリだけは絶対に見たいと思ってたのに。とてもすてきな名前の通りでしょ。もちろんくだらない夢だってわかってるわよ、ほかの通りと大して変わらないはずだものね。でもそれがわたしの夢だったの。そしてそれも実現できずに終わるのよ。なぜなら、この世界にはもうパリもロンドンもニューヨークもないんだからね」

体の内から高濃度の放射能に冒され、誰一人として例外なく、壮絶な死を迎える絶望の世界。
しかし、この小説にグロテスクな場面や恐ろしい描写はほとんどない。
タワーズ、モイラ、ホームズ、オズボーン・・・読者がこの物語の中で出会う人々は、それぞれに、最良の場所で、穏やかな最期を迎える。

当然のこと、こんな事態は自分にも自分の子孫にも絶対に降りかかってほしくないと強く思うが、一方で、もしそんなことが現実となったら、自分はどんな最期を過ごしたいかと、怖いながらもついじっくりと考えたくなってしまう。そんなアンビバレントな感覚が読んでいる間常に心の中で生まれていた。

この小説に描かれるのは、あまりに美しい終末世界である。私達が今生きている現実の方が、よほどグロテスクであり、未来の見通しは混沌としている。そんな現実にあってこの物語が見せてくれる世界は一種の桃源郷のようであり、
静かに閉じていく世界は、不思議な浄化作用をもたらしてくれるのだ。
深い余韻を残す小説である。

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