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人と比較し続けた人生から解放された今日までのこと【10】


33歳の今、人と比較することを辞める術を見つけて、人生で1番体が軽い。

今日までのことを、ここにつらつらと書いていこうと思う。

【1】はこちらから


私が応募したのは、老舗国内メーカーが出していた「新規ブランドの立ち上げメンバー」の求人だった。

民事再生を経験しているその企業は、なんとか復活するためにもがいているように見えた。

もちろんブランドを立ち上げたことなんてない。
だが、私がうっすら心に持ち続けていた、そして東京に来た理由でもある「自分で事業を立ち上げてみる」に近いことが実現できるのではないかと、霞んだ頭でぼんやりと思った。

一次面接は、オンラインで面談だった。
しばらく人目に触れていなかったボロボロの見なりを整えて挑み、なんとか受かった。
それは親友が私にくれた最後の力だったように思えた。

一次面接通過の連絡が、その力を少し加速させた。二次面接は、会社に訪問した。


そこは田舎町にある創業100年ほどの小さな工場で、50代以上の人がほとんどを占めていた。
そして皆、どことなく元気がなかった。
社内はどんよりと暗い雰囲気が漂っていたが、黙々と商品を仕上げていく職人の目からは僅かに光を感じた。

かつては、業界でも有名な立ち位置だったのだろう。
国内外に多くの工場を持っていたようだった。
民事再生を経て、多くの工場を売却し、なんとか残った本社工場だけが稼働していた。
取引先が激減し、衰退しているようだった。
会社全体が暗い空気感を纏っていた。

だが、この会社を買い取った社長が、「なんとか復活させたい」と、情熱と愛情を持ってこの会社を見ているのが伝わった。

私は自分を重ねた。
抱きしめたくなった。
漠然と、私はここを守りたいと思った。

初めての企画

最終面接では新規ブランドのアイデアと戦略をプレゼンするよう記載されていた。

久しぶりにノートとペンを出し、机に向かった。
何も浮かばなかったらどうしよう。その不安が頭をかすめた。


だが、その不安は裏切られた。
新しい商品のアイデアが溢れ出した。
この会社がいまやるべき新規ブランドは何か。

接客業で営業トークを作るために行ってきた競合調査も、
コンサルティングで身につけたブランド戦略の知識も、
PR業で身につけたプロモーション戦略の知識も、どれも全く無駄になっていなかったのだ。
確実に私の血肉になっていた。

もがいてきたことの意味が、やっと見えた瞬間だった。
自分でも驚くほど、次々とアイデアが湧き出た。
目に涙が滲んだ。

描けるかもしれない。
これならできるかもしれない。


この脳みそのどこからそれが出てきているのか、全くわからなかった。
9割は錆びて腐っているような脳だ。
でも、そのわずかな間を縫って、アイデアは溢れ出た。

無我夢中で私はプレゼン資料を書き上げ、面接に挑んだ。
社長はゆっくりと私の話を聞き、「いいね」と言った。


退職

私は勤めている会社に別れを告げる覚悟をした。
それは入社して一年弱のことだった。
休職期間を含めれば、働いた期間はもっと短かった。

「短期離職」その言葉がのしかかった。

それでも、悩まなかった。
私は逃げることを選んだ。

このタイミングで仕事を辞めず、前の会社に復職をする選択をしていたら、私は今ここにいないと思う。

鬱とは、本当に恐ろしいものだ。
気力や体力だけではなく、思考力まで持って行かれてしまう。
もう少しのところで「逃げる」という選択肢を選べる思考力さえも失っていたと思う。

よく、自殺のニュースなどで「そこまで思い詰める前に、何故逃げなかったのか?」と疑問を持つ人がいる。
その選択は、脳が正常に動く状態の人にしかできないことだからだ。
その判断力を奪うのが、鬱なのだ。

思い切って、ただ来た波に乗ってみて見える世界


企画の仕事は、もともと私の頭に全くないものだった。

たまたまストレングスファインダーの診断で出た「私の強み」
そこに身を委ねただけだ。
それが、私の生きる道になった。

私はこの転職で、必ずしも好きなことをするだけが正解ではないと知った。
自分の強みを発揮できるところに行くことさえできれば、認められやすくなり、そうすれば自己肯定感もあがり、結果的に仕事を好きになることもある。
そんな順番があっても良いのだ。

好きなことを見つけられなかったとしても、見失ったとしても、絶望するにはまだ早い。

逃げるは恥でもなく、役に立つ。
その選択肢は、自分を守るための重要な切り札だ。
休んでいい。立ち止まっていい。
何かに流されてもいい。
それが時に良い出会いを運んでくることだってあるのだと思った。

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