自分が思う自分は本当に自分が感じている自分なのか。
晴れて心理学の勉強を始め、早速テキストを読み進めておりますが、いやいや奥深い。
理解していたつもりの異文化コミュニケーションやステレオタイプなどなど、私が知っていたのは上っ面だけだったんだな。
いや〜興味深い。
今思えば、出願したすぐにいろいろあって、電話に出た事務の方が同じ日本語を話しているとは思えないほど全く話が噛み合ず、もしかしたら私騙されちゃったんじゃないか、と本気で心配していたけど、準備が全部整った今では、「あ〜あんな事もあったけど無事始められたじゃん」、と笑い飛ばせる状況になれて本当に良かった。
(実家の親にも本気で心配されました)
さてテキストを読み進めているうちにとても興味深い項目があったのでちょっとご紹介。
「自己とは?」という項目の中の一文です。
「自分がどのような人物か初めて会う人に3分程で説明して下さい」
さて、どうでしょう。皆さんは自分はどんな人だか、初めて会った人に上手く説明できますか?
どんな性格で、どんなことが好きで、どんなことが出来て、どんなことに力を注いでいるか。
残念ながら私はなかなか自分のことを上手く説明できません。
そしてそこに書かれていてハッとさせられたのが、
「自分はこういう人だ」と説明している内容は自分自身で感じる「自分」でしょうか、それとも幼少の頃から親、もしくはこれまでの友達に言われ続けて出来上がった他人の価値観からの「自分」なんでしょうか。
ふ、深い!!!
例えば、
「〜〜ちゃんて男っぽいよね」
「〜〜ちゃんて何言われてもめげないよね」
「〜〜ちゃんて落ち込むことないでしょ」
「〜〜ちゃんてハッキリ物が言えていいよね」
などと幼少の頃から言われ続けた結果、自分では気づかないうちに出来上がったイメージを無意識のうちに「そうかもしれないな」と思い込み、それが自分という説明になっているかもしれない、てことありませんか。
私もそんな風に考えたことが今迄なかったけれど、確かに、
「男勝り、姉御肌、スーパー元気、声がでかい、ずけずけ物を言う、何を言っても怒らない」のような分析を頂いて、何かある度に頼られて、嫌とは言えずに立ちまわっていた場面も幾分あったな、とこの歳になって気付きました。
もちろん自分が気付かない「自分」に気付かせてもらうという事もあるけれど、「本当は違うんだけどな。」としんどかった思い出も確かにあります。
本を読むのは好きじゃない、と思い込んでいたけど本当は好きだった。
勉強嫌いだと思ってたけど実は好きなのかもしれない。
ハッキリ物を言えると思っていたけど実際は怖じ気づいて何も言えなくなる。
本当はしゃしゃり出たくなかったけど廻りの期待に応えてああするしかなかった。
などなど.....
サバサバしていて自分を凄く持っていて、小さなことにはクヨクヨしない。と見えているけど実際は、周りの目をとても気にするし、空気は読むし、傷つき易い。なんて(私のような)人も実はたくさんいるんじゃないのかな。
自分ではない自分をそうだと演じ続けているうちに窮屈になるのは言うまでもないし、
そんなところからも「生き辛さ」ってもしかしたら出てくるのかもしれない。
そう思うと、周囲の声掛けって想像以上の威力だな〜と怖くなる。
そして、ちょっと脱線してしまうけど、これって子供への声掛けにも言えるんじゃないかと、
「今回の先生ハズレね」
「あの子の家おかしいんじゃない?」
「あの国はもうどうしようもないな」
「お父さんには期待しないで」
何気ない大人達の会話を聞いている子供達に、無意識のうちにネガティブな先入観を与えている可能性は充分あると思う。それが絶対的存在の母親からだと尚更だろうに.....
話を戻して、
もしこの記事を見て、その生き辛さが無意識のうちに形成された思い込みの自分だと気付けたなら、自分が感じる自分を見つけ出す事によって多少は気持ちが楽になったりするんじゃないかなと思いました。
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