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陽キャ哲学は資本主義を超える

先日、友人から陽キャ哲学は資本主義を超えなければ世間から広く理解を得るのは難しいという趣旨の指摘を受けた。正直な話、資本主義での自身の立場など経済的な諸問題の1つに過ぎないと考慮にも入れていなかったので目から鱗が落ちた。友人は経済的な一定基準を満たしていなければ、資本主義社会では幸福になることは出来ず、幸福を得るための最低金額は統計によって求まると主張している。思想や哲学において個人の経済的な立場が登場するということが一般的でなかったため、哲学書や思想書を読む人には当たり前と考えていることがそれらの書籍を読まない人間の当り前ではなかったことに気が付かされた。彼のような一般人に向けて陽キャ哲学を説明することが急務だと感じたため、資本主義という思想とは無関係の枠組みで勝者になることは幸福とは何の関係もないことを証明していきたいと思う。

ホームレスは陽キャラか

陽キャ哲学は能動性を軸にして人間性を考える哲学体系である。能動性の有無だけに注目すれば、ホームレスも陽キャラ足り得る。しかしホームレスでは経済的に取れる選択肢が少ないことが問題なのである。お金は絶対ではないが、経済力によって本当にやりたいことが抑圧されてしまうことがあるのは事実だ。この指摘は一見正当性のある主張に見えるが、その実は揚げ足取りに過ぎない。なぜなら、個人の能動的態度は過程を追い求める姿にこそ現れるからである。「ケーキが食べたいからケーキを買う」という浪費行動を見てみよう。能動性はいつの時点で発生していると考えられるだろうか。

資本主義は哲学領域ではない

上記の図で考えるとわかりやすい。ケーキを食べているという事実は、ケーキを食べている個人が能動的か否かを判断する材料になり得ない。ケーキを食べているという事実は能動的態度を取った後の「結果」に過ぎないのである。個人の能動性は欲求から行動までのプロセスにおいてのみ発生するからだ。ホームレスについても全く同様なことが言える。ホームレスがお金を持っていないというのは現在の状態であり、未来時のやりたいことにお金が必要であるならば働けばよいだけの話である。また能動性の副産物として経済的勝利を収めることは可能だが、その逆は必ずしも正しくない。大富豪の息子や娘に生まれたからと言って彼や彼女が必ずしも能動的な人間であるとは限らない。寧ろ、充足され過ぎていることにより表現欲求や知的好奇心が失われてしまう可能性すらある。アメリカの富裕層を対象にした調査によると富裕層世帯の7割が2世代目までに、9割が3世代目までに相続した財産の殆ど全てを失っているというのだ。これは驚くに値しない。お金は何らかの経済活動によってしか発生しないため、浪費によってお金を使えばいずれは無一文になる。能動性のない個人は他人のクリエイティブによって、お金や時間を搾取される餌に成り下がってしまう。資本主義的勝利は結果だけを見ているにすぎず、絶えず動き続けている我々にとっては現在地確認ツールとして以上の価値はない。少なくとも資本主義は哲学ではないのである。

夢は非売品

宝くじなどによって、偶然に経済的勝利を収めてしまった人は何にお金を使うのだろうか。図1は年末ジャンボなどの高額当選の宝くじを販売している株式会社宝くじネットのホームページに記載されていたアンケートである。高額当選者の4割以上が当選金の使い道として貯蓄を挙げている。2番目に多いのが土地や住宅の購入改築である。やりたいことがないから宝くじを買っているのだし、生活の安定のために当選金を使うのは当然だと思うだろうか。それは誤りである。図2は宝くじ購入者(高額当選者)に購入動機を尋ねた結果を表したもの。購入者の38%は夢を持ちたいから、宝くじを買っていたのだそうだ。夢を求めて宝くじを買うが、いざ当選すると生活の安定や浪費にお金を使うことになるという皮肉な結果になっている。お金がないから夢を持てないのではなく、夢がない人間がお金の有無を逃げ道にしているというのが正しい解釈である。「まずお金を稼がないと~」という資本主義者のお題目は体のいい言い訳であり、真に受けてしまえば社会の欺瞞に飲み込まれることになるだろう。当然、経済的基盤を確保することが重要であることは否定しないが、それは日本人の平均年収前後の収入があれば十分であり、その程度の収入と十分な余暇が保証されているならば、経済的勝利に固執する意味はあまりないと言えるだろう。

図1
図2

以上のことから、現在の状況を軸として夢を決定することはお勧めしない。プロセスに必要なお金は稼げばよいのだ。それと同時に漠然とお金を稼ぐこともおすすめしない。それでは夢を見失いかねないからだ。まず陽キャラになることを起点として、経済活動は付帯事項と考えるべきである。経済第一主義的な思考を捨て去らなければ、真の陽キャラになることは永遠に叶わない。では、「とりあえずお金」ではなく、「とりあえず影響力」という考え方はどうだろうか。次章では影響力(いいね)集めというゲームの本質と有用性について考えていきたい。

いいね集めで人が死ぬ

お金というものは信用を可視化したものである。日本銀行券はただの紙切れであり、日本政府がその価値を保証している間のみ効力を持つというのは誰でも一度は聞いたことがあると思う。株式や債券も同様に信用を可視化したものであり、上場企業の株式に価値があるのはその会社が未来際にわたり経済的成長を続けるであろうことが根底になっている。オタク評論家の岡田斗司夫は「信用をモノやサービスに交換できるのならば、個人の評価もモノやサービスに交換できる」ということに注目した。評価を貨幣の代わりに使用する評価経済社会である。起業家の堀江貴文や芸人のキングコング西野は評価経済を利用してオンラインサロンというコミュニティビジネスを始めた。従来型の会社は、社員に賃金を払い仕事をしてもらっていたが、インフルエンサーと働きたいという需要を利用して、逆にお金を払って仕事をする人間を集めたのである。しかし岡田斗司夫が評価経済社会を構想した際には考慮されていないエラーが現在になって露呈することになった。誰に評価を貰うかということに主眼を置いていないまま評価経済社会というアイデアのみが一人歩きを続けた結果、フォロワー集めそれ自体に意味があるという勘違いをする人間が評価経済社会に参入してきてしまった。お金と受動的フォロワーの交換という悪夢が生まれたのである。

上記の動画は随分前に投稿したものだが、キズナアイがなぜ死んだのかということを説明している。キズナアイのフォロワーはクリエーターではなく受動的個人の集合であり、何人増やしても彼女を満足させることはなかった。Vtuberという界隈のトップに上り詰めながら彼女はその地位をあっさり捨ててしまった。Vtuber界隈の頂点には達成の虚しさと差し引きして残る程度の価値は何もなかったということでしょう。

同様の事件は各所で起きています。有名なものだと事業家&インフルエンサーの三崎優太(青汁王子)の自殺未遂があった。彼は90万人のYoutube登録者と160万人のTwitterフォロワーを抱えていますが、みねしましゃちょーというYoutube登録者5万人程度の炎上系Youtuberのアンチ活動によって自殺未遂に追い込まれたのである。Youtube登録者だけで考えても85万人の戦力差があり、物理的な戦いなら数の優位で圧倒できるであろう状況ですが評価経済社会ではフォロワーは何人いようが、その質が低ければインフルエンサーは敗北してしまうのです。この記事を書いている時点で、三崎優太はフォロワーの欲しいものリストから抽選で好きなものをプレゼントするという、所謂お金配り企画をしている(2022/12/21現在)。このような方法で集めたフォロワーは、三崎氏のファンでもなければ、能動的個人でもありません。こんな人間たちに何人フォローされようがまた自殺に追い込まれるだけである。みねしましゃちょーにアンチされているときに、励ましてくれるわけでもなく援護の動画を作ってくれるわけでもない。ただ彼の一挙手一投足をみて、お金を配ればただ喜ぶという陽キャ哲学で言うところの陰キャラが彼を氏の決断に追いやったと言っても過言ではないでしょう。少なくとも三崎雄太にはフォロワーが大量にいることによる精神安定作用は無意味だったようである。

フォロワーもまたクリエーター仲間であることの重要性に気が付いたのが、陽キャ哲学普及協会(ぱくもと)であり、Vtuber団体のにじさんじを運営する株式会社ANYCOLORである。にじさんじは底辺Vtuberでも、最低限のクオリティをクリアしていれば、界隈に入れるという人海戦術をVtuber界隈に持ち込んだ。従来型のVtuberは人気商売であり、キズナアイが底辺Vtuberと交流するということは有り得なかった。しかし、にじさんじは度重なるオーディションを行い、多種多様な素人を業界にぶち込みまくった。結果としてVtuberのボディを持っていれば、即ちVtuberとして名乗ってよいという文化が形成され、にじさんじの視聴者もまたVtuber(クリエーター)という陽キャ界隈を作り出したのである。私もこれと似た構想を思いつき「プロ奢られヤー杯」と命名した。その結果、私のフォロワーには底辺発信者が集まってきてくれたのである。彼ら彼女らはフィッシャーズやヒカキンの動画を観ることはない。我々ニッチの中で可処分時間を分け合っている。文化は我々自身が作り上げることが出来るということを身をもって証明したのである。

まとめ

この記事を書くきっかけをくれた友人には感謝している。彼もまたVtuberとして活動していて試行錯誤している最中である。彼は資本力や経済力など、従来型の価値を重要視する保守的な人間であり、革新的な私とは意見を対立させることも多い。青汁王子やキズナアイのようにならないで欲しいとは思う一方で、彼の精神的な強さも信じている。どちらが正しいということはない。ただ進む道が違うだけである。私の正しさは歴史に証明させるので後世で答え合わせをしようではないか。それではまた次回お会いしよう。

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