陽キャ哲学普及協会

ある哲学者の戯言

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陽キャ哲学とは何か

みなさんこんにちは。元々は『ぱくもとの精神と時の部屋』という名前で、Youtube発信活動をしていた『ぱくもと』です。最近チャンネル名を変更しました。その名も『陽キャ哲学普及協会』です。友人と発信活動について雑談していたところ、チャンネル主の名前(ぱくもと/純白)は毎回自己紹介で発声しているので、チャンネル名に書く必要はないのではないかという意見を貰いました。確かに【チャンネル名=自分のハンドルネーム】である必要性はあまりないので、【チャンネル名=自分の活動内容】に変更するこ

    • 千葉雅也はチベットのモーツァルト!?名著『動きすぎてはいけない』を精読。

      本noteは千葉雅也『動きすぎてはいけない』の第一章の精読と解説の文章である。本書を既読してからの閲覧をお勧めする。また好評であれば、第二章以降の精読と解説も行う所存なので、高評価をお願い致します。 はじめに私はポストモダンの専門家ではない。ポストモダン思想の著述を殆ど読んだこともなければ、読んだことのある数冊の著作ですら完全に理解できているとは言い難い。ポストモダンを代表するドゥルーズ、デリダ、フーコーという三人の哲学者がいるが、前者二名は言っていることが意味不明で理解が

      • ベーシックソートを再考する。一億総思想家社会の理想。

        はじめに この文章は以前に書いたnote記事の再検討が目的のため、普段の陽キャ哲学を知っている読者諸兄からすれば耳にタコかもしれない。ぱくもとの思考整理に付き合ってくれる者だけご一読いただきたい。 プロ弱者ビジネスとはマッチ売りの少女型経済の成功の一形態である。マッチ売りの少女やフランダースの犬のネロ少年が幼くして死を回避することができなかったのは何故か。つまるところ、SNSの不在である。雪の中でマッチを売るには時代が早すぎた。現在、ライブ配信しながら幼い少女が路上でマッチ

        • 偽善の構造

          ガザのパレスチナ人は可哀想だ。なぜ国際社会の皆が一丸となって彼ら彼女らを助けないのだろうか。小学校の社会科の授業で『ハゲワシと少女』の写真を見たときにも同じことを思った。この写真が公開された当時、この写真を撮影した写真家のケビンカーターは『なぜこの少女を助けないのか』という批判にさらされた。確かに目の前の困っている人に手を差し伸べるという小さな善は、積み重なれば世界すら動かす力になるだろう。実際にケビンカーターはこの写真を撮影した後に、ハゲワシを追い払い、この少女は国連の食糧

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          女装するムッソリーニ - 反ファシズムのすゝめ

          私は政治で社会が変わるという神話を信じない。同時に全ての政治活動が無意味であると主張したいわけではない。政治活動は現代アートのもっともポピュラーな表現形態であり、人類全体の内発的動機付けをサポートするための必須要素であると考える。政治活動は社会が変わるから偉大なのではなく、万人が内に秘めるヘゲモニズムを解放する手段が『政治』以外に存在しないから偉大なのである。これから私が書く文章は政治に対する哲学の優位性を誇示するために、政治活動に対して冷笑的に取られる表現を多用するかもしれ

          女装するムッソリーニ - 反ファシズムのすゝめ

          【小説】ポスト山上の策謀

          陽キャ哲学普及協会のマシュマロ(質問投稿サービス)に流星のごとく現れた自称ポスト山上徹也を名乗る匿名ユーザーがいる。彼は社会への恨みを文章に昇華して陽キャ哲学を冷笑する。その文章が面白いので、発信媒体を持たないポスト山上に代わって私が彼の作品を発信する。以下、太字がポスト山上の文章である。 自分より恵まれてる奴がつらいつらい言ってるの見ると怒りが湧いてきます。ルサンチマンをどこにぶつければいいのでしょうか。全部岸田が悪いのでしょうか。山上徹也様。。。。 ポスト山上は社会へ

          【小説】ポスト山上の策謀

          主人公化する弱者男性たち

          最近、私は創作活動に対して手を抜いている。複数のアウトプットから総合的に得た見解を動画や文章に落とし込むのではなく、時事ネタを多用している。これは本来よくないことだ。時事ネタ批評は万人が万人に対する批評家になれる最高にラクな発信活動である。ニュースを見て、思ったことを適当に羅列するだけで良い。あの芸能人が炎上している、あの団体とあの団体が対立している。こういうことは我々が社会的な動物である以上、無限に沸き起こってくる。ネタが尽きないという意味でも、時事ニュースは我々に無数の創

          主人公化する弱者男性たち

          陽キャ哲学の起源

          人の趣味や趣向は人生のいつ頃決定されるのだろうか。恐らく、特定の時期などは存在せず、生まれてから経験した様々な事象が少しずつ、人格を形作っていくのだろう。陽キャ哲学の多くの部分は世間から見れば『屁理屈』と呼ばれる論理性のねじ曲がった思想に感じるかもしれない。陽キャであることを人生の最優先事項に掲げる人は、私(陽キャ哲学の提唱者『ぱくもと』)以外に出会ったことがない。『陽キャになりたい』、もしくは『陽キャでありたい』という欲求はどこから生まれたのだろうか。生理的欲求や安全の欲求

          陽キャ哲学の起源

          陽キャ哲学の小さな愛の歌ーうつ病の治し方講座

          最近、新型ウィルスのパンデミックという危機的状況を脱してしまったからなのか、人類全体が燃え尽き症候群になっているように感じる。社会の体感温度が下がっている大きな要因は、自称か診断を受けたかに関わらず、うつ病やそれに類する精神疾患を、悩みとして訴える人の増加にある。うつ病という疾患の生物学的意味は、恐怖や解決不可能な課題を目の当たりにしたときに、生物が向う見ずに立ち向かってしまうことを防ぐための鎮静作用という意味がある。パンデミックに伴う自粛政策により、人と人とのコミュニケーシ

          陽キャ哲学の小さな愛の歌ーうつ病の治し方講座

          日本人が持つ陽キャコンプについて

          陽キャ哲学では『能動性の回復』によって個人と社会の両面を多角的な価値においての勝者にしていくことが出来ると主張する。ゆえに、能動的な負け組という言葉は矛盾語法であり、能動性を奪還する過程で我々は勝者になることが出来る。考え方の多様性は価値転倒から生まれるため、思考パターンに他者の価値がインストールされることを是としていては陽キャになることは不可能である。価値転倒を遺伝子レベルで刷り込む各種の方法については、過去の記事及び著書『超陽キャ哲学』で既に述べた。思考法の解説と指南は終

          日本人が持つ陽キャコンプについて

          ヘルマンヘッセ『デミアン』を読む。俺たちは大衆ではない。

          最近、ヘルマンヘッセのデミアンを再読した。現在の社会が抱える問題が如実に描かれていたのでシェアしたいと思う。デミアンという物語は、主人公のジンクレール青年の成長物語である。彼の幼年期から、その後成人し兵役に行くまでの過程が描かれている。内気な性格だったジンクレール少年は、地元の悪ガキであるフランツ・クローマーに虐められていた。それを救ったのが、この物語のキーパーソンであるマックス・デミアンである。デミアンはいじめっ子からジンクレールを救ったのみならず、批評する楽しさを教えたこ

          ヘルマンヘッセ『デミアン』を読む。俺たちは大衆ではない。

          【コミュニティ支配論から文化論へ】なぜ陽キャは自衛隊や天皇を越えたのか?

          東京の池袋を舞台としたライトノベル『デュラララ!!』をご存じだろうか。かつてのチーマー文化が存在していた頃の治安の悪い池袋を舞台に、カラーギャングを含めた各団体と登場人物が鎬を削る群像劇である。作中で冴えない高校生である竜ヶ峰帝人が、統率者不明の巨大組織ダラーズを立ち上げ、面白半分で参加するユーザーたちをコントロールして、敵の組織を倒すというシーンがある。これは、本ライトノベルが執筆された2000年代を象徴するようなインターネット文化に対する過大評価だろう。2000年代と言え

          【コミュニティ支配論から文化論へ】なぜ陽キャは自衛隊や天皇を越えたのか?

          陽キャ哲学美術大学 千葉雅也『センスの哲学』を批評する

          千葉雅也は美大コンプ?先日、千葉雅也の『センスの哲学』を読了したので軽く批評しようと思う。センスの哲学は読んで題名の如く、センスとは何かという問題に言及している書籍である。詳しくは書籍を読んでほしいが、簡単に解説するとセンスとは直感的理解に優れた感性を表す言葉であり、理屈や理論とは対を成す存在であると千葉雅也は言う。フランス現代思想的な言葉で表すならば、脱意味化である。ものごとをリズムとして脱意味的に楽しむことが出来る人物こそが、彼が辿り着いたセンスの良い人物像というわけであ

          陽キャ哲学美術大学 千葉雅也『センスの哲学』を批評する

          批評される喜び

          作品を作れば、批評されるのは当たり前の話である。批評されるのが怖いなら作品を作るべきではない。成功は多作とトライ&エラーによって発生する偶然で、エラーの部分では厳しい批判にさらされる。作品に対する批判は影響力に比例して大きくなる。作品を作ることで間接的、直接的を問わず社会に対して影響を与えてしまうのだから当然だ。これをある理系YouTuberは『通知攻撃』と呼んだ。ニッチエコノミーで細々と人気者になるという幻想は不可能だ。何故なら、グローバリズムが世界を繋げ、50人に評価され

          汚言症が思想になる!?不謹慎女神あまみしゃけのお告げを言語化してみた

          これはあまみしゃけ写真集(仮)の後書きとして寄稿したものである。 あまみしゃけという人物を一言で言い表すならば、純粋不謹慎という言葉が相応しい。彼女のYouTubeチャンネルを覗いてみると、男性器や女性器等の不謹慎ワードが入った動画タイトルが散見される。これだけを見れば、ガーシーやへずまりゅうといった従来のバズ狙いの不謹慎系(メディア不謹慎)YouTuberと同類に見えるかもしれない。しかし、彼らの露悪的行為はあくまでも自分を売り込むためのセールストークにすぎない。過激系発

          汚言症が思想になる!?不謹慎女神あまみしゃけのお告げを言語化してみた

          『古見さんはコミュ症です』⇔『弱者男性はコミュ障です』

          著書『超陽キャ哲学』の編集と出版作業を担当してくれたモザイクのアニメ評論がkindleで出版された。30年近く生きていると、アニメや漫画などの創作物には一定のパターンがあり、どんなに目新しいキャッチコピーの付けられた作品を視聴しても、多少の既視感は感じるものである。我々は子供ほど純粋にアニメや漫画を楽しめないのかもしれない。古臭い作品群にも斬新さを与えてくれるのが批評である。批評者の数だけ批評があり、世界や社会に対する見方がある。生きるということは批評なのである。今回はモザイ

          『古見さんはコミュ症です』⇔『弱者男性はコミュ障です』