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[読書の記録]菊地成孔・大谷能生『憂鬱と官能を教えた学校』(2016.01.12読了)

『憂鬱と官能を教えた学校』(菊池成孔・大谷能生 2004)
を再読した。

 本書は、米国ボストンの名門バークリー音楽院において教えられているポピュラー音楽の演奏および作曲・編曲のための理論=「バークリー・メソッド」を解説している本である。文学ちっくなタイトルで指示されているバークリー音楽院自体の話ではない。
 ただ、もちろん理論について平板に解説するのではなく、著者ふたりによる講義形式で、バークリーメソッドを用いて20世紀のポピュラー音楽史を振り返るように構成されており、人文科学の道具立てを使ってさまざまな考察がなされているので、読み物として大変面白い。

 バークリー・メソッドは、1オクターブを12等分した音階の組み合わせにより構成される和声のひとつひとつに機能をあてはめることを基本として構成される。和声同士が持つ関係・機能は、(基本的には)各音の周波数に基づいて説明・定義されており、至極数理的・科学的な音楽理論である。
 バークリーメソッドをもってすれば、機能和声の有限の組み合わせにより、われわれの感じる「カッコよさ」、「気持ちよさ」までもが自在にコントロールできてしまう。
 この合理性は、ポピュラー音楽の生産に適していた。結果、ジャズ、ソウル、ポップス・・・といった20世紀を代表するポピュラー音楽はほとんどがこのバークリーメソッドにより作られた、といってよい。

 ただ、あらゆる現象を説明するような超越的立場を持つ理論はこの世に存在しえない(cf.ウィトゲンシュタイン)。理論の体系があれば当然そこから逸脱する運動が生じる。「カウンター・バークリー」とでも言うべき動きから生まれたモード・ジャズ、ファンク、クラブミュージックといった新ジャンルは、バークリーメソッドを超越し、それでもなお聴衆を魅了し続けるポピュラー音楽となった。

 こうしてバークリー・メソッドによる説明の範疇を超えた音楽も「クール」とされるようになり、同理論はその有用性・有効性を失いつつある。というのが本書の論調である。
 バークリーメソッドの内容については、教養書のレベルとしては相当に突っ込んで書いてあるなという印象を受けるものの、説明が丁寧&平易なので、少なくともなんらかの楽器経験がある人ならば理解できるのではないかと思う。
 ただし、本書の後半部分にあたるモードの部分の解説は率直に言って、、、よくわからない。(私自身モードを理解していない)
 ここはバークリーメソッドの限界でもあるので、構造的に仕方ないのかもしれないが、かなり ぼかして書いてあると感じた。機能和声のような音の積み上げによるコーダルな考え方とモードは本質的に何が違うのか?がようわからんというか。
 ジャズアドリブの実学書によく書いてある「垂直=コード」対「水平=モード」という図式も、わかるようで煙に巻く言い方だと思う。それでは結局、モードは旋法(も音の積み上げ?)によって定義されている和声の状態が引き延ばされているだけではないか?という。。。

 それくらいバークリーメソッド、機能和声による音楽の解釈理論は、私のように少しでもジャズを齧ったことがある人間の脳を浸食している、ということなのだろう。自己分析すると、私は結局のところ、楽曲を機能和声の繋がりでしか認識していないと感じるほどだ。(五線譜も苦手だし、ほとんどコードネームしか見ないし…)
 しかし実際には、本書で語られるとおり、和声間に生じる引力というのは音楽をドライブする要素のひとつでしかない。むしろ和声の進行が停滞した中でも、律動のエネルギーさえ有れば音楽はドライブされていく。それがまさしくファンクでありクラブミュージックだということだ。
 つまりこれだけ市民権を得たバークリーメソッドも、音楽をある側面から切り取って説明する道具のひとつに過ぎないんですよ、という説明にはあらためて納得感があった。

 いわゆるコード一発モノとか、モード曲というのはセッションなんかでよく演奏するジャンルではあるが、その来歴をあらためて理解すると、モードの中でケーデンス感を回避したり、あるいはあえてケーデンスを設定/想定して弾いたり、という遊びの中にも意味を込められるな、と思ったり。
 あとは、『ヤング・アダルトUSA』でも論じられていた通り、21世紀に入ってからのポップチャート上のヒット曲の多くが、2~4小節のコード進行パターンを延々と反復する中でAメロ・Bメロ・サビ、、、等の違いを表現する、俗に「ループ歌謡」と呼ばれる手法で作曲されている(ループ歌謡に相当する英語が有るのか知らんが)。ケイティ・ペリーの”Teenage Dream”とか、カーリー・レイ・ジェプセンの”Call Me Maybe”だとかに特徴的である。
ループ歌謡において楽曲を進行させ展開させるのは、律動と旋律の役割である。まさにブルース的というか、「カウンター・バークリー」的な音楽のフォーマットであり、これも21世紀におけるバークリーメソッドの普遍性の終焉の証左なのかな、とも思った。

 さて、良く知られているように、バークリーメソッドが発展した背景には、1940年代米国でのビバップの繁栄がある。バークリーメソッドとビバップの登場時期はほとんど重なっている。
 強進行のコードの高速回転の中で、分散和音とアベイラブルスケールの拡張により構成される幾何学的なアドリブ合戦は、いま聴いても強烈な音楽体験だ。高度な理論と卓越した楽器演奏技術により実現されるクレバー&マッチョな音楽としてのモダンジャズの歴史はビバップに始まっている。
 このビバップが、そのクレバーさ故、理論による被分析性を持ち、バークリーメソッドによるアドリブノウハウの標準化に貢献したという。

 ここで重要なのは、草創期のビバップそのものはバークリーメソッドにより作られたものではない、ということだと思う。もちろん若干にわとりたまごな部分はあるだろうが、バークリーメソッドはビバップという現象を説明しているだけであり、ビバップという現象自体はバークリーメソッドとは独立して、ジャズミュージシャンたちによる即興の応酬の中で生み出されたものだということである。
 いっぽうで、バークリーメソッドが人口に膾炙したことでアドリブ演奏のすそ野が広がり、モードやフリーといったジャズの新しい形を生み出しただけでなく、今となっては私のようなアマチュアにすら標準的なジャズのアドリブ演奏ための基礎的な知識は比較的容易に獲得可能となっている。

 音楽、特にジャズはよく言葉(自然言語)による会話に喩えられる。ジャズでは演奏者同士が相互に反応して音像をアドリブで作り上げて行くが、ここで演奏者によって繰り出されるフレーズが「発話」で、バークリーメソッドを含む楽理は、会話に筋を通すための「文法」というわけである。ジャズ演奏者の間ではよく、Ⅱ‐Ⅴ進行上で使えるフレーズのことを「語彙」という呼び方をしたりもする。
 ただ、幼児が文法書や辞書を使って言葉を覚えるのではないように、また、日本語ないし英語が文法ドリブンで発生したわけではないように、言葉にとっても理論は「生成の源」ではない。理論はあくまで、起きたことを説明する道具にすぎず、理論そのものから言葉は生まれないように思える。
 著者の菊池さん・大谷さんは、この本の中で言語学と音楽理論のアナロジーを意図的に回避している。しかしやはり自然言語と音楽の間には否定しようがない類似性がある。何かの表現手段である以上当然なのかもしれないが、上の喩えが象徴的なように、言語との比較は音楽の特性をイージーに理解出来たような感覚をわれわれにもたらす。いっぽうで、突き詰めて考えるには膨大な作業が必要になる、という陥穽を備えているらしく、菊池・大谷は言語との安易なアナロジーによる説明を避ける。

 といいつつ、超絶技巧ベーシストのビクター・ウッテン大先生は堂々とMusic as a Language”とか言って講釈垂れている(笑

 リンク先の動画でも語られているとおり、ウッテン先生の場合、本当にものごころつく前からベースを持ってステージにたっていた系なので、まさに第一言語を習得する感じだったのだろうなというのはわかりますが。。
 だから実は、ベースの腕は人類最強でも、この人の教則は感覚的すぎてわかりにくいし、TEDトークもすべてが素直にうなずける内容では無い。

 なぜなら私を含めてほとんどの人にとって音楽は第n言語(n≧2)として習得されるものであり、先生のようなネイティブではないからだ。
 したがってパンピーは、「何を話すか?」ではなく、「どう話すか?」ドリブンで音楽を学習する。その道は平たんではなく、私のようにいつまでたっても上達しない人もいるだろうし、躓いたまま音楽をやめてしまう人もいるかもしれない。
 逆説的だが、最初はたどたどしくても、一応はグローバルに標準化された方法で流暢に音楽言語の獲得を目指せるのは、バークリーメソッドがあるからこそだともいえる。この点はバークリーの恩恵だし、楽器演奏や作曲のすそ野を広げ、20世紀の音楽を豊かにしたのは間違いない。

 先ほど、理論は、現象の説明はできるが現象自体を生成することはできないと述べた。
 いっぽうで、特定の表現形式についての体系だった理論やルールが有るからこそ、その表現形式を扱える人口が増えて、新しく生まれる創造性もあるのではないかと感じることもある。

 それは例えばラップのような。
 押韻と律動に関するルールが、新しい言葉の繋がりを生み出すことで、コンベンショナルな自然言語の文法ではありえない文章や表現が生まれている。昨今、日本語ラップフリースタイルがブームになりつつあるが、フリースタイルのバトルやサイファーを見ていると、ラップでなければありえない言い回しがたくさん生まれていると感じる。
 バークリーメソッドは西欧発の近代化の運動として批判されることも多いが、こうした芸術の標準化について、近代対前近代の単純な図式で片付けるのではなく、時には標準化そのものがもたらす多様性を評価することも必要なのではないか。

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