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[読書の記録] 中尾賢司『「ネオ漂白民」の戦後 アイドル受容と日本人』(2015-05-13読了)

面白かった本の感想を記録しておく。

『ネオ漂泊民の戦後』(中尾賢司 2014年)


ブログも含め好きなライターさんの単著だが、この人の文章は人文系の素養も豊かに盛り込まれ、音楽を中心としたポップカルチャーの歴史を独特の視点から読み解いていていつも面白いのでなかなかおすすめである。

さて、この本では、筆者お得意のジャンルであるアイドルの歴史と連合赤軍を手掛かりに、戦後日本の近代的自我を読み解く、というのがテーマとなっている。

団塊の世代が学生時代を過ごした1960年代、急速に高等教育が普及し、産業化・都市化が進展した。すると、女性はそれまでのように、農耕社会や「家」に紐づけられ、「母」であることを強要されることがなくなった。

続いて団塊とバブルの狭間の田中康夫世代になると、『なんとなく、クリスタル』に表象されるように、女性の自我は象徴消費を反復する主体としてデータベース化された。

戦後日本において従前の代表的社会的女性像であった「母」は崩壊し、女性はいつまでも大人として社会から承認されず、子どもを擬態し続けなければならないという事態に陥った。

このような文脈でアイドル受容の歴史を参照すると、近代の女性像における、文学的リアリズム(人生の一回性)とゲーム的リアリズム(構造を維持して反復されるコンテンツの特徴)の対立構造が浮かび上がる。

筆者によれば、現在のアイドルは「まるで文化祭の前日を何度も繰り返す学園アニメのように推しメンを変えながら青春の一ページを何度も生きなおす」ように消費されているという。
AKB48等を考えればわかるように、生身の人間であり、「若さ」を売りにして時限的に活動を行っているアイドルの側には「卒業」という終わりが絶対的に存在する。そのいっぽうで、ファンの側は推しメンさえ変えればいつまででも消費を続けることができる。

社会全体でも、前近代的人生モデルの終焉、すなわち、いつまでも若さを強いる社会が到来している。何度も若さを、青春の1ページを反復し続ける姿勢を受け入れてくれる対象・アイドルに、多くの人が夢中になるのではないか、と分析している。

この構造の源流には、
①前近代的自我 =おニャン子クラブによって表された「無反省/無価値でただ愛される存在」
および
②近代的自我 =渡辺美里によって表された、男女雇用機会均等法世代以降の自立した生き方

の両者の登場があった。

この二者は、「母」という生き方を喪失した女性たちにとってのオルタナティヴでありつつ、完全には「母」を代替しえない。
現代のアイドルが表象するのは、前近代と近代というこれら二つの相克する自我によって女性が引き裂かれている事実であるという。

後半では、連合赤軍指導者・永田洋子を題材として引き続き女性の近代的自我を論じている。

永田洋子のやたらに明るい川柳と、J-POPに出現したポジティブ思想のリンクを指摘し、そこに潜む「ネオ漂泊民(おおざっぱに言うと団塊ジュニア世代のこと)」の心情を解き明かす。

ネオ漂泊民の心情は渡辺美里、尾崎豊、桜井和寿といった作家によって表現されるが、そこには近代文学の特徴である「風景の発見」があるという。つまり、山、川、谷といった、自然と調和した暮らしの中では障害となり、乗り越えなければならない存在を、乗り越えた先に快をもたらす「風景」として再発見する構造である。

ネオ漂泊世代の文化表象の特徴である前向きさは、記号としても読み解くことができる。

90年代のJ-POPは、記号的に「なにか障害につまづく」⇒「意識を変える」⇒「前向きに進んでゆく」という構造を持っている。

否応なしに農村共同体的な社会から近代社会に投げ出された団塊世代とは異なり、団塊ジュニア以降の世代には農村共同体的な風景がはじめから存在しない。その意味で最初から「漂白」された存在だったネオ漂泊民たちは、風景を失った「わびしさ」に生きる漂泊第一世代に抵抗する形で、無根拠なポジティブシンキングに走ったのではないか、というのが著者の分析である。

まさに再帰的近代化の議論そのものなのであるが、漂泊世代との差別化をはかったネオ漂泊世代の表現が記号的な表現を誘発したというのは興味深い。

逮捕された後、永田洋子は様々な消費のされ方を受けた。容姿にコンプレックスがあるとされたり、「美人ではないが愛嬌があった」とされ、ある意味アイドルとして受容されていた。

絵も川柳も稚拙で、革命も事件の総括も終わらず、すべてが未熟な永田はまさしくアイドルであり、「母」になれない存在だった。

アイドルを切り口として戦後日本の精神史を読み解いたアイデアは大変おもしろかった。

モラトリアムが無期限に延長され、いつまでも大人にならなくてよい社会に関する論点は特に目新しいものではない。ただ、いつまでも一人前であることを認められない社会、持続的な成長を強要される社会というものが、昨今の意識高い系を生み出したとしたら、その源流が90年代J-POP、ひいては渡辺美里にあったという示唆は興味深い。

女性誌の観点からみても、宝島社系の「大人女子」雑誌はまさに母を失った日本の最新の症候であろうし、STORYやVERYなどの主婦雑誌にさえキャピキャピした「女子」性がふんだんに盛り込まれていることも母の喪失を裏付ける。

専業主婦=母=女の幸せという旧来の価値観を乗り越える形で大人女子がどのように登場したかについては、アイドル受容に現れる女性の自我の相克も、ひとつの傍証となるのかもしれない。つまり、大人女子雑誌が推奨しているのは、人生の一回性への抵抗としての消費なのではないだろうか。

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