見出し画像

深夜の電話

ダメだ。

僕は夜遅くに頭を抱えていた。

今年の初めにプレッシャーを自分にかけ続けることを決め、辛い時期が続くがそれを乗り越えるために臨機応変に行動していくことを目標にした。
それが途端に打ち砕かれるような出来事を前になす術なく、悩んでいた。

そんな時僕は相談相手にあの人を選んだ。

好きなこと?得意なこと?|Ryo Kubota|note(ノート)https://note.mu/carp_straight/n/nc03ae6df50b6

ここで紹介した名古屋の知り合いだ。僕が本当に悩みに悩んだとき、そして何かしらのアイディアが欲しいとき、彼に相談することにしている。

時計の針は1時を回っていた。テレビもない室内に「ブーッ」というバイブレーションが響く。
「結構飲んでたのよ〜」
酔っ払っているという彼の声や言葉の繋ぎ方は、明らかに酔っ払いのそれではない。
僕は正直に今のありのままを話した。

彼は自らの経験を元にこんな話をしてくれた。
「やってみて合わなかったら、僕はすぐ逃げるんだよねぇ〜」と。
そして「模範解答は目指しちゃだめ。模範解答に似せていればOK!」
後にイチローの引退会見を見ることになるが、この2つの言葉が脳裏に浮かんだのは言うまでもない。

やってみて合わない、というキーワードは世間では非難されがちだ。
バイトや仕事、趣味やプライベート…続けることが何よりも称賛の対象になっている世の中では、やってみて違うと判断してやめてしまうことは異質で相反すること。
そんな批判の目をかいくぐり、自分らしさを追求するために何かをやってみることは、特に若い時はとてもとても難しい。

でもその業界でもトップクラスの成績を残しているその知り合いは、子供の頃から合わなければ逃げることを選んできた。そういう僕もあえて逃げ道を作っていた時期もある。それは少なからず自分に自信がなかったところがあるのかもしれない。
でもそれが負い目になっているところもある。続けることで何か生まれたりしなかったのか、逃げ道を作って挑むことはだめなのではないか。

過去を振り返って、逃げることが当たっているかどうかは分からないし、正攻法かどうかはまだ分からない。
でも単純にやってみた結果に僕は信用を置ける。やってみたことで分かったことに意味がある、僕は話を聞いてそう感じ始めた。

でも、模範解答を目指さないという言葉を聞いたとき、僕の中に少しだけもやもやがあった。
それはエリートや自分より実力が上の人間と戦い、勝ち抜くことが必要と感じていた僕に模範解答を目指さないということは、妥協しろと言われているようなものだった。
だからその話になった時、半分聞きたくないという思いもあった。

でも本当の意味はそうではなかった。

模範解答に自分を当てはめようとするとき、人は必ず考えられる枠の中で動こうとする。
それは自分に厳しくなるときと同じだ。
こうでなければいけない。こうするべきだ。
たしかに必要な考えだが、それは求めるものの枠の中に当てはめるだけなのではないかと。
いわゆる0か100かという状態。
それが是か否かは置いておいて、模範解答が常に求められる環境下で常に模範解答が出せるわけではないことが分かっているのだから、「これくらいでいっか」という考え方は一見妥協に見えるが、実のところ応用を生むための余裕と取れる。

模範解答を追い求めることは確かに必要な努力かもしれない。でもそうやってしっかりやっていれば抜きどころが分かるようになる。
それが経験というもの。
そして模範解答に似せていればOKという余裕を持つこと。

それは妥協しないことよりも実は難しいことなのかもしれない。

時計は3時近くになっていた。聞きながら取っていたメモは2ページ分にも及んでいた。
早く寝たいだろうにそれだけの内容を話してくれた、何よりこんな僕にアドバイスしてくれていることに感謝しつつ、申し訳ない気持ちを抱えて電話を切った。
電気を消し、掛け布団をかけて寝る僕の心の中は充実感で溢れていた。そのおかげか分からないがいつもより早く寝付けた。

翌朝起きた時僕は決めた。

今の状況から逃げよう。いや言い方が悪い。もっと自分のやりたいことにフォーカスしよう。
やってみて合わなかった。それが分かったならOK。
そして模範解答をガッチリ目指すのではなく、僕だからこそ出来る経験からの余裕をもっていこう。

その日から僕の歯車が少しずつ回り始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?