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音楽エッセー#10 今、あなたと会っている。2度と同じものは無い、その感動に。

童謡の「お花が笑った」と「シャボン玉飛んだ」は、共通点があると気づいた。歌のメロディがほぼ同じで、伴奏を編曲しているうちに、2つの歌の区別がつかなくなったのだ。そのことを歌手のYasmineに話したら、「そうだね。」と納得したけれども、関心は低い様子だった。私にはそれがとても新鮮だった。音楽を届けるとは何か?という問いの本質的な答えを感じた。

「そーどどーれーみーみーみー」と「そーどどーれーみーそーそー」だけ取り出せて眺めれば、2つとも同じ「ペンタトニック」で、2つとも同じ「長短短」リズムだ。私はある歌や音楽を演奏したり編曲したりする時、音楽理論やリズムを分析し、そこからアレンジのための構造や部品を見つけて、料理(編曲)の作業へと進む。2つの「歌」に共通点を見つけようとするのは、私にとって音楽をするためには、大切な意味を持つ。

でも世界には2つの「歌」どころか、無数に「歌」・音楽があるし、無数に感動がある。そう考えるときに、共通点を見つけたり音楽理論が隠れていることを再認識することに集中しているだけでは、音楽の一部分しか見ていないのではないかと、最近、不満・不安を覚える。最近、音楽ってもっと言葉では説明の出来ないような大きな感動体験だと思うのだ。

「お花が笑った」と「シャボン玉飛んだ」がどう「同じ」かではなく、どれだけどのように「違う」か?を考えてみよう。まずは歌詞が違う。後続のメロディも違う。調(キー)が違うかな。それからそれから、、、感動が違うよね!

養老孟司さんは、なぜ飼い猫のマルが言葉を持たないか?と考え、動物にとって、世界は1つずつ違う事象で出来ていて、それらの1つずつ違う事象の、1つずつの違いを別々に感覚で捉えてその違いと向き合って生きているからだ、と解ったそうだ。養老さんと奥様とでは、同じ「マル」と呼ぶ声にも、声の高さ、強さ、勢い、音色、滑舌に、違いがある。だから、両者は、同じ「マル」であっても、同じではない。

音楽は時間芸術・再現芸術であり、演奏されて、人に聴かれて、音楽は初めて音楽となるし、何よりも、感動する。1つとして同じ感動はないという点からみたら、音楽の中に、言葉で「同じ」ものを見出そうとするより、言葉ではない「感覚」で、「同じではない」ものを見出そうとすることだって、大切なのではないだろうか?と考えた。音楽における、例えば匂いはどうだろう。音楽を演奏する時に、演奏する場所の匂いを嗅いでいる。学校の音楽室やコンサートホールの楽屋は独特のこもった匂いだ。ピアノの先生のお宅の玄関に飾られた百合のブーケの強い芳香。これらは音楽の記憶と1つ1つ結びついている。または一緒に鑑賞した人の違いも、記憶と一緒に残る。ピアノのレッスンの生徒も、一人一人も違う匂いがする。音楽はいつだって違う感動をもたらしてくれる。

Yasmineが常に意識しているのがライブの大切さだ。歌詞からフィクションの人物を登場させたり、その人の気持ちをありありと想い浮かべて、それを歌に乗せて人に伝えようとする、そのライブ・パフォーマンスに命を賭けてる(笑)同じ1曲を何度も何度も機会ある毎に歌うとしても、その日の体調や気持ちのあり方は1日として同じではないし、ライブのたびに集まるお客さんのメンバーも違うし、お客さんの方にだって、その日の体調や気持ちの違いがあるし、同じ「歌」であっても、2つと同じライブにはならないし、同じ「歌」は2つと無いし、同じ「感動」は2度と無いということを確信し、一回毎に「感動」的なパフォーマンスをする自分に対して、絶対の信頼を置いている。

カルミナをやっていて良かったと思う。Yasmineと私という2人の違う人間が、音楽をそれぞれ愛していて、それぞれのやり方は、「同じ」ではない。その違いが、音楽とは何かを、考えるきっかけをくれる。私はもっと自分の感覚を自信をもって良いと思う。そしてあまり考えすぎないで、1つ1つの「同じ」ではない世界を、素直に感覚で受け止めて、遠慮なく味わったらいいと思う。その感覚を自分の音楽に反映させていこう。

同じ「感動」は無い!ということに全身全霊を賭ける、というと2度と会えない一期一会の切なさが愛しくなる。…なんだか恋愛のようだな。きっと恋多きカルメンのような女性の情熱とは、恋する自分への自信と確信と併せて、「同じ」恋は2つと無いという一期一会の切なさを愛おしむ感性が含まれているのではないかな。これはまた後日、別のnoteの記事で。

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