【12日目|前編】サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼ポルトガルの道 Padrón → Santiago de Compostela 道が終わるところ
2023/05/29(月)
奇跡を起こす泉
6:45
朝のキッチンでパンを食べ、身支度をした。今日この時間にここにいる者の多くは巡礼者で、これから歩いてサンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂まで行く者たちだ。居合わせたイタリア人、ドイツ人らに別れを告げ、出発。
国道N-550号線にそった村々の中を通っていく。おおきな道には出ないで農村の小径を行く。主にブドウ畑だ。
8:00
昨日は雨だったので、洗濯物が乾かず。今朝は晴れてはいないが、雨でもない。そこで、この生乾きのシャツを乾かしてやろうと一計を案じ、袖から傘を差して歩く。
闘牛士のようにたまに振ったりする。これは良いことを思いついたとさらに振りかざして興が乗ってきたところ、家から小型犬が勢い良く出てきて、しこたま吠えた。闘牛士(マタドール)よろしく犬をあしらう。
8:17
国道沿いに立派な教会が見えてきた。「スタンプ?」と声をかけられる。白のセーターが眩しい初老の男性だ。呼ばれるままついていき、結局その人が鍵を開けて、中でスタンプを押してくれた。奴隷の聖母教会 Santuario da Nosa Señora da Escravitudeという。
伝説はこう語る。
むかし腫れ物の快癒を願ってサンティアゴへと巡礼していた男がいた。男はこの地で泉の水を飲んだ。すると3日後に治ってしまった。
「聖母マリア様、この病の"奴隷"から開放してくださいまして、ありがとうございます」と男は感謝した。そのことにちなんでここの教会がエスクラビトゥーデEscravitude(奴隷の身分)の聖母の教会と呼ばれるようになった。
大むかしの話だと思っていると、1732年のことらしい。日本では徳川吉宗が馬に乗って鷹狩りしていたころだ。
巡礼者は多いのか尋ねたら、「年中たくさん来る。"mucho gente"だ」と言っていた。江戸時代から変わらず人が通っていくのだろう。
8:30
道標には距離が書かれている。100km切ったときに、まだまだあるなと思ったが、マラソンよりも短くなってくると一抹の寂しさが生まれるものである。
昨日は足首の筋肉が疲労で痛く感じた。今日も多少は違和感があるが、それは疲れというやつだろう。自分には30kmは長かったのだ。疲労が蓄積しない範囲の歩行距離が望ましい。しかし、歩きはじめてみると忘れるほどに調子は良い。坂道の下りが負担を感じるが、到着を気にし始めて気持ちのはりが体を前に進める。
8:50
朝ご飯の用意が今朝はない。行動食として買っておいたが、なかなか消費できなかったクッキーに助けられる。堅焼きで水分がないので水で流し込む。僕はこれをレーションと呼んでいた。
トランジットのドバイで買ったデーツもいよいよなくなった。
9:00
都市近郊の田舎道をゆく。道も少し広めの舗装道路とか市街地みたいなところもある。
軽食喫茶ア・ミラグローサA Milagrosaで朝ごはんにすることにした。
ハムトーストとかないかと尋ねたがないという。よく見るとパンにオムレツを挟んだものがラップにくるまってカウンターに平積みで売られていた。作り置きのオムレツパン。オムレツの中はじゃがいも入りで、お腹にたまって、かつ美味しかった。
ここで、旅の始まりで出会った人物に会った。
巡礼人物列伝 カミラ
巡礼2日目で話題にしたカミラ。最初に話したのはその時だが、実はその前日のヴィラ・シャンVila Chãでも出会っていた。バイーアはイリェウス出身のブラジル人カミラだ。
彼女のここまでの話はこうだ。
5月17日に友達連れでポルトから歩き始めた。最初から足の筋肉に違和感を感じていたが、それでもしばらくは歩いていた。ヴィラ・シャンVila Chãの8km手前で限界を感じ、整形外科で見てもらい、Vila Chãで休息することに。
その間、電車で次の大きな街である、ヴィラ・ド・コンデVila do Condeに行き、首尾よく中古の自転車を手に入れた。
自転車で足への負担を軽減しつつ、2日間進み、3日目には自転車を押しながら、歩き始めた。自転車を押したり荷物を融通したり、友達の助けもあったという。4日目も同じようにして、歩きと自転車の両方で進んでいたが、5日目にタイヤがパンクして、折よく大きな街にいたので、そこで自転車を放棄して歩くことにした。
ヴィーゴVigoにつくと痛みが再発した。薬局の店員にプラナロムPRANAROMという薬と、同名のオイルをあわせて使うと良いと言われ、やってみたら、すごく良くなったという。ヴィーゴVigoでは一日よく休んで、よく寝たそうだ。睡眠は大事である。ヴィーゴVigoからポンテベドラPontevedraには電車で移動した。失った時間は電車で取り戻したのだ。
このへんの臨機応変さにカミラの強さがあると思った。脚を痛めてもギブアップしない方法を探りつつ、同行の友とも仲良く歩きながら、最後は電車も使って帳尻を合わせていくスタイル。レジリエンスを感じずにはいられない。
ここは、パドロンから6kmほどの道中。お互いルートは違ってもよくここまで気たもんだ。最初に話したポヴォア・デ・ヴァルジンPóvoa de Varzimで痛めた足の話もしていたので、ここで詳しく聞いてみた。
人それぞれのカミーノがあると巡礼者はよく言うが、楽ありゃ苦もある道中で、機転を利かせた判断が光っている好例だと思ってカミラの了解を得て紹介させてもらった。
なお、彼女はハッセルブラッドの中判カメラを持って歩いていた。アメリカで撮影および録音技師をしているらしいことを後で知った。
襟を正して
9:40
脳内あだ名ザ・タッチことドロとレベッカの双子が林を抜けたカフェにいてお茶している。通り過ぎてからおやっ? と思い、見返してびっくりしたくらいだ。なんか早くないか?
双子じゃなくて4つ子か?
という疑惑がふたたび湧く。
11:00 登り坂。今日の行程、アップダウンがけっこうある。
12:00
高速道路の脇の敷地、日光の当たるところで休憩。靴下を脱いで、シャツも脱いで乾かす。気温が上がってきて、さすがに暑いくらい。
12:48
あと5kmの道標を認める。
ハデな自転車の一団が過ぎていく。
そういえば、よくマラソン大会などでは仮装して走るエンタメ枠みたいな人がいるが、カミーノはそうでもないのかな。ぬいぐるみをつけて歩いてる人は目撃した。
あと、カバンに国旗のパッチなんかつけていてくれると、ああ、ブラジル人なんだなと分かったりして案外助かる。そういやブラジル人くらいしかつけてなかったか?
州都だけあって人が多い。都会の生活者が普通に暮らしている。交差点で信号待ちしている時に地元民、観光客、巡礼者が入り混じっているのが分かる。そして、信号待ちというのもよくよく考えてみれば全然出会わなかった。ヴァレンサの城に入る通路が一方通行で信号が付いていたくらいだ。
道の終わり
13:45
町中を通り抜けて中心地にやってきた。カテドラル近くのアラメーダAlameda公園で最後の休憩。この休息にはたっぷりと時間をかけた。サコッシュとして提げてきた風呂敷もカメラバッグも全部しまい、カバンひとつにした。
14:20
到着の瞬間の0Km地点ではどんな風体をしていればよいのであろうか。襟を正してあるき出す。
14:40
歩いた筋が間違っていたのか、裏手に出ているようでどれがカテドラルかわからない。
「カテドラルはどこですか?」とカテドラルの真下で聞くアホらしさだ。
ビラ配りの女の子に「これ全部ですよ」と笑われながら正面の方向を教えてもらう。
さっきのは裏手だったのか。そりゃそうだよな。
正面広場に出ると地面に何十人という人々が、あるものは足を投げ出し、あるものは床に寝そべり、またある者たちは車座になり笑い合っていた。
到着した者たちはひとしきり写真を撮り終えると、自分の来た道程に釣り合うだけの十分な時間をかけて到着の感慨を味わうのだった。
巡礼者はそれとわかる風貌をしているので、巡礼者同士はお互いの顔を見るとその目で大成を称え合うのだ。
どの一つの顔も間違いなく腑抜けの顔をしている。選択の苦悩や体の痛みなど全てから開放されて、何もなくなってしまい、多幸感だけが充満した空間だ。
歩いた者たちには見える解放区、控えめに言ってもユートピアがそこにはあった。
さて、この日やることはまだ終わっていないのではないか?
後編につづく
【12日目|後編】サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼ポルトガルの道 Santiago de Compostela 旅の終わりに