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モラトリアム・コンフリクト

あらすじ:私、花輪桜は、16歳から屏風絵師をしている。屏風絵師としての仕事は大好きで、誇りを持っているが、最近少し悩んでいた。それは、お客様からのセクシャルハラスメントの被害を受けていることだった。
ある日、いつもの贔屓のお客様からの依頼を受け、絵を描きながら、手に触れられるなどのいやらしい言動をされてしまった。私は抵抗したが、その結果、仕事を失ってしまった。
その後、私はお母さんに相談し、侭田大学で造形学の教授をしている三好梨花先生に紹介してもらい、真面目な学生をバイトとして派遣してもらうことになった。私はホッとしたが、派遣されてきたのは、背は高いがチャラい服装の雪村楓という男性だった。
初めて会った時は、不安だったが、楓はとても真面目で、作業も丁寧にこなし、私たちに手出しもなかった。私は、楓の協力を受けて、絵の仕事も徐々に再開することができた。
ある日、私は屏風絵の展覧会に出品することになり、楓に手伝ってもらっていた。楓は、私が描く絵を見て、「すごい才能だね」と言ってくれた。私は、楓の言葉に励まされ、頑張って絵を描き上げた。
そして、展覧会当日。私は緊張しながら作品を展示した。すると、たくさんの人が私の作品に注目し、賞賛の言葉をかけてくれた。私はとても嬉しかった。
そして、最後に賞状の発表があり、私が最優秀賞を受賞したことが発表された。私は、嬉しさで涙がこぼれそうになりながら、スピーチを行った。
その後、楓は、「僕も何か手伝えることがあったら言ってね」と言ってくれた。私は、楓にとっても屏風絵を教えることにした。

私の名は花輪桜。16歳から「屏風絵師」をしている。
この仕事は大好きだし誇りを持っているが、最近少し悩んでいることがある。それは…………
『桜!お客さんだよ!』
「はい!」
私は急いで立ち上がり、襖を開けてお座敷に向かう。するとそこには、いつも贔屓にしてくださるお客様がいた。
『今日もよろしくね』「はい、こちらこそよろしくお願いいたします」
私が頭を下げると、その方はにっこりと微笑んだ。
『じゃあ早速だけど、例のものを頼むよ』
「かしこまりました」
私は筆を手に取り、墨汁に浸して絵を描き始めた。「出来上がりました」
『うん、いいね。やっぱり君の描く絵は素晴らしいよ』
「ありがとうございます」
『また次も君に依頼しようかな』
「本当ですか!?嬉しいです!!」
『ふふっ、可愛いなぁ君は』
そう言ってお客様は、私の手に触れる。
『この手であの絵が描かれているんだね』
お客様は私の手を執拗に撫でる。
「あの、お客様。困ります」
『よいではないか』
お客様の手つきがいやらしいものに変わる。
「んっ……ちょっと……」
『ほらほら、大人しくしろって』
「やめてくださいっ!」
私が叫ぶと客はピタリと動きを止め、冷たい声で言った。
『あーあ、これからも贔屓にしようと思ったのに、残念だ』
客はそのまま外套を羽織ると、「金は払わないから」と言って帰って行った。
「なんだったの……?」
私はしばらく呆然としていたが、すぐに我に返った。そして部屋に戻り、布団の中に潜り込む。
「なにがあったんだい?」
お母さんが顔を覗かせる。私が先程起きたことを話すと、みるみる顔が険しくなった。
「なるほど、そんな事が・・・。」
「お母さんには今まで黙っていたけれど・・・何度かこういう事があったの」
「ふむ・・・」
母はしばらく考え込むと言った。
「三好先生に相談してみまひょ」
+++
三好梨花。
侭田大学で造形学の教授をしており、何度か研究に協力した事があった。
「男手が欲しいさかい。力持ちで、仕事を手伝ってもらえて、それでいて私達に手出さない真面目な人が。丁度ええ人が居はる?そりゃ助かるわあ」
母によると、真面目な学生をバイトとして一人派遣してくれるとのこと。
掃除や片付け、画材運びなどに協力してくれるらしい。
「ああ、良かった。これで安心ね」
私はホッとした気持ちになった。
だが、しばらくしてやってきた人物を見て絶句した。
背は高いが、チャラい。
服が光ってる。
「初めまして、雪村楓と言います」
言動は普通だ。私は内心ほっとした。
「初めまして、屏風絵師の花輪桜です。おしゃれな服ですね」
「すみません。帰省先から直行してきたので・・・。あ、これお土産です」
彼は紙袋を差し出した。中には東京の有名な洋菓子店のクッキーが入っていた。
「ありがとうございます。お茶でもいかがです?」
「いえ、さっそく仕事に取り掛かりたいと思います」
「あら・・・」
確かに真面目な青年のようだ。それに、関東訛りなのがまた新鮮である。
私はちょっと楽しくなって、彼を部屋に案内することにした。
「こちらの部屋になります」
「おお~!」
彼が目を輝かせた。どうやら気に入ってくれたようである。
私は嬉しくなって微笑んだ。
「気に入っていただけましたか?」
「あ・・・・まあ」
あれ?もっと良い反応を期待していたのだけど。
緊張しているのかもしれないな。
「ところで、どうして屏風絵を描かれるのですか?」
「えっと、小さい頃に見た父の絵が忘れられなくて。いつか自分もあんな絵を描いてみたいと思って」
「そうだったんですね。俺はそういう情熱がないので、凄いと思います」
私は少し胸がチクリとするのを感じた。
「はい。だからこうして夢が叶いまして、本当に嬉しいです」
「よかったら絵を見せていただいてもいいでしょうか?」
「あ、はい!」
私は彼に描いた絵を見せた。
「へぇー、いいですね。特にこの花の絵が素敵だなぁ」
「ありがとうございます!それは私が小学生の頃に描いていた絵なんですよ」
「そうなんですね。今は何歳なんですか?」
「23歳です」
「え、年上!?」
「はい、そうですよ」
「・・・俺は来月の誕生日で、20です」
「えっ!?」
私は驚いた。こんな大人っぽい人が3つも年下なんて。
「あ、ごめんなさい。失礼なこと言って」
「いいえ、全然気にしないでください」
彼は優しく微笑んでくれた。なんだかドキッとしてしまう。
「あの、もし良ければ絵のモデルになってくれませんか?」
「モデル!?俺なんかでいいんですか?」
「はい。あなたをモデルに描きたいのです」
「分かりました。じゃあ、よろしくお願いします」
+++
私は絵を仕上げた。彼はそれをじっくりと眺めている。
「あの、そんなに見られると恥ずかしいのですけど」
「あ、すみません。つい」
「出来栄えはいかがでしょう?自分としては満足いく仕上がりなのですが」
「うん、とても素晴らしいと思いますよ」
その言葉を聞いて、私はホッと息をつく。
「じゃあ、約束通り報酬を支払いますね」
「え?俺の仕事は掃除と業務の手伝いでしたよね?こんなことでお金をもらうわけには・・・」
「いえ、是非受け取って下さい。これは私の感謝の気持ちです」
「・・・では、ありがたくいただきます」
彼は納得してくれたようで、財布を取り出した。
私は彼の手を握る。
「えっ?」
「あの、これからも時々遊びに来て欲しいなって思って」
「は、はい。喜んで伺います」
彼は真っ赤になってしどろもどろになっている。
可愛い人だなと思った。
「し、仕事ですから、当然伺いますよ」
照れ隠しなのか、そんな事を言っている。
私はクスッと笑った。
[newpage]
今日の仕事は、近所の「千条寺」の屏風の修復作業だ。
さすがに全てをアトリエには持ってこれないので、私が直接出向いて作業をすることにする。
もちろん、雪村君も同行してもらった。屏風や画材の持ち運びは重労働だからね。
「雪村君は力があるので助かります」
「いえ、大したことないです。これくらいしか役に立てませんから」
彼は謙遜するが、かなり役に立ってくれると思う。
実際、屏風を運ぶのを手伝ってくれただけで、ずいぶん楽になったのだ。
「それにしても・・・綺麗な髪の色ですね」
私は思わず見惚れてしまう。白に近い銀髪がキラキラ輝いている。
「えっ、そうですか?」
「はい。まるで宝石のようです」
「あ、ありがとうございます」彼は困っているようだが、嫌ではないらしい。
「ふむ・・・そうだ。花輪さん、髪を染めてみませんか?」
「えっ?」
「せっかく美しい髪をしているのですから、もっとオシャレしてみてもいいと思いますよ」
「いえ、でも私、目が悪いので眼鏡がないと・・・」
「コンタクトレンズにしてみたらどうですか?」
「ああ、それならできそうですね」
「じゃあ、今度一緒に買いに行きましょう!」
「えっ、それはちょっと」
「ダメですか?」彼は上目遣いで私を見る。
すると、私は少し顔を赤くして言った。
「わ、わかりました。行きます」
「本当ですか!嬉しいです!」
彼は飛び跳ねて喜んだ。
「ちょっと。お寺の中でいちゃつかないでよ」
振り向くと、そこには呆れた顔の吉井ちゃんがいた。
彼女はこのお寺の娘で、様々な事務をこなしている。
このご時世にお寺を存続させるのは大変だけど、吉井ちゃんなら大丈夫だろう。
「い、いちゃついてなどいないよ!」
「そ、そうですよ!ちょっと髪の色の話をしてただけで・・・・」
「はいはい、わかったよ。それより、そろそろ着くわよ」
彼女は指差す。
「おお~!ここが噂の『千条寺』かぁ」
立派な門構えに圧倒される。
「あ、あれ?もしかして『千条寺』ってお坊さんの家じゃないんですか?」
「そうですよ。ここはお寺の離れです。住職は別にいらっしゃいます」
「そうなんですね。じゃあ、修復作業は別の人が行うのかな?」
「いいえ、私たちでやりますよ」
「えっ!?俺たちがやるんですか!?」
私たちは屏風の修復作業を行うことになった。
+++
私は屏風の前に座る。
「じゃあ、始めますね」
「よろしくお願いします」
「雪村君もお願いします」
「はい」
まずは破損個所の確認をする。
「うーん、だいぶ傷んでますね」
「あのね、無理に復元しなくていいから。どうせ松村雪舟の絵なんて大した価値ないし、花輪ちゃんの絵のほうがずっと好きだから」
「うん、確かにそうかもね」
「えっ、どういうことですか?」
私は彼に事情を説明した。
「なるほど、そういうことだったのか。まあ、俺は絵のことはよく分からないけど、好きにやってください」
「はい。では、遠慮なく」
私は筆を手に取る。そして修復作業を始めた。
+++
「ふう、なんとか直りました」
私は額の汗を拭いた。
「あの、これは一体何が描かれているのでしょうか?」
「ああ、それはですね―――」
私は彼が知りたいであろうことを解説した。「なるほど、これが『水墨画』というものなんですね」
「はい、その通りです」
「すごいなぁ。こんなにきれいなものは初めて見たかもしれない」
彼は食い入るように屏風を見つめている。
「雪村君、よかったら描いてみませんか?」
「えっ、俺なんかで良ければ」
彼は恐縮しながらも屏風の前に立った。
「じゃあ、これを使って下さい」
私は画材セットを渡す。
「ありがとうございます」
彼は真剣な表情になり、屏風の前で集中し始めた。
そして数分後、ついに完成した。彼は自信満々の顔で私に見せてくる。私は彼の腕前を確認することにした。
「わあ、上手ですね!でも・・・」
「えっ、何か変だったかな?」彼は不安げな顔になる。
「いえ、そんなことはないです。ただ、せっかくだから雪村君の好きなように描いたほうがいいんじゃないかなって思いまして」
「えっ、それってつまり・・・」
「はい、今度は自由に描いてくださいね」
「はい!」
彼は嬉しそうに返事をした。
「ところで、さっきのは何を描いてたんですか?」
「ああ、あれはですね・・・」
彼は得意気に説明を始める。私と吉井ちゃんはその話を聞いて笑った。
「あらあら、楽しそうね」
後ろを振り向くと、そこにはスーツ姿の女性がいた。
「あ、三好先生」
「こんにちは、今日もお仕事頑張ってるわね」
「はい、頑張ります!」
「それで、どうして私を呼んだのかしらん?ここは学校じゃないんだけど」
「実はですね、ちょっと相談したいことがありまして」
「そう、じゃあ私の部屋に行きましょう」
「ありがとうございます」
+++
三好先生は、このお寺の近くにある大学の教授である。年齢は三十代半ばくらいだろうか。
ふくよかなボディは私にはないもので・・・正直あこがれる。
彼女は湯呑みに茶を注ぐ。そして一口飲むと言った。
「最近楽しそうね。何か良いことあった?」
「はい、実は・・・」
私は彼とのことを話した。
「ふむ・・・なるほどねえ」
彼女はお茶を一口飲むと言った。
「私達にとっては好都合だけど、あまり深入りしないように気を付けなさい。きっと後悔することになるから」
「えっ?」
どういう意味だろう。
「それって、どういう・・・」
その時、ドアがノックされた。「はい?」
ガチャリという音と共に扉が開かれる。
そこには、作務衣を着て給仕に来た楓くんの姿があった。
「あ、雪村君。丁度良かった。今あなたの話をしていたところなの」
私は驚いて立ち上がった。
「そうだったんですね。それで、何の話をしていたのですか?」
私は慌てて誤魔化そうとした。「えっと、あー・・・そろそろお昼の時間だから、今日は何を食べようかな~とか考えてました」
すると、彼がにっこりと笑って言う。
「あ、じゃあ俺が作ろうか?もうすぐ材料が届くはずだから」
「本当ですか!?やったぁ!」
私は思わずガッツポーズをした。
「あら、随分仲が良いのね」
「はい!だって彼、料理が上手なんですよ」
「へぇ、それは楽しみね」
三好先生は興味津々といった様子で微笑んでいる。
「さて、今日のメニューはオムライスです。ケチャップで文字を書きましょうか」
「わぁ!お願いします!」
私は子供のようにワクワクしながら待っていると、彼は綺麗な字で『LOVE』と書いた。
「きゃあっ!恥ずかしい!」
「あはは、冗談だよ」
彼は可笑しそうに笑う。
「じゃあ次は私が書く番ですね」
私は自分の名前を書こうとした。しかし、それは彼に止められる。
「待って、俺の名前を書いて」
「え?どうして?」
「いいから」
よく分からないけれど、言われた通りに彼の名前を書く。
「ありがとう。これで完成だね」
よく見ると、続けて読めば「楓LOVE」と書いたことになるではないか。
これじゃあ、私が雪村さんに愛を囁いているみたいである。
私は急に恥ずかしくなり、俯いたまま動けなくなってしまった。
「あの、どうかしましたか?」
心配そうな声が聞こえる。
「いえ、なんでもないです」
私は首を横に振った。
「さあ、食べましょう」
彼の作ったオムライスはとても美味しかった。
食事が終わると、彼は食器を片付け始める。
「手伝うよ」
「いいや、大丈夫だからゆっくりしておいて」
「でも・・・」
「いいから」
彼は優しく微笑んで言った。
すると不意に彼の手が私に伸びる。そして頬に触れた。
「ごはんつぶ、付いてますよ」
そう言うと彼は指先についたごはんをペロリと舐めた。その瞬間、私の心臓が跳ね上がる。
「・・・ありがとうございます」
私は動揺を隠すようにお礼を言うと、彼は再びキッチンに戻っていった。
「あらあら、初々しいのね」
三好先生はニヤつきながらそう呟く。
「そ、そんなんじゃありません!」
私は真っ赤になった顔を隠しながら否定するのであった。
三好先生の部屋を出ると、彼女は私達に一枚の写真を手渡してきた。
「はい、これあげるわ」
「これは?」
「アルバムよ。この前整理していたら出てきたの」
見るとそこに映っていたのは父と母であった。
7歳のときに亡くなってしまった私の父・巌彩(がんさい)。
最高の絵師であり、私の永遠の目標である。
そしてその前に亡くなった本当の母の写真まであるのは珍しい。
「これ・・・海岸ですね」
「あなたのご両親は昔、沿岸地方に住んでいたのよ。まだお墓が残っているかもね」
「・・・行ってみます」
ふと窓のほうを見ると、雪村君が窓を拭いているところだった。
私はその後ろ姿を眺めている。
(ああ、やっぱりカッコイイな・・・)
私は彼に恋をしているらしい。でも、伝えるつもりは無い。今の関係を壊すくらいなら、このままで構わないと思ったからだ。
その時、突然突風が吹いた。
「きゃあっ!」
バサバサという音と共に、大量のプリントが宙に舞う。
「雪村君!」
三好先生は叫ぶように言う。「任せて下さい!」
楓くんはそう答えると、素早くジャンプをして全ての紙を集め始めた。しかし、途中でバランスを崩してしまい床に落ちてしまう。
「危ない!!」
私は咄嵯に飛び込んで、彼を庇った。
背中に強い衝撃を受ける。「痛た・・・」
私は痛みに耐えながらも、起き上がろうとした。すると、目の前には彼がいるではないか!これはいわゆる壁ドン状態だ!!私は嬉しさで胸がいっぱいになる。
「大丈夫!?怪我はないかい?」
「は、はい!お陰様で無事です」
私は思わずドキドキしながら答えてしまった。そして、ふと我に返る。
(あーっ!!!!やっちゃったぁ~!!!)
私は顔を真っ赤にして、その場に座り込んだ。
「本当に良かった・・・」
彼は安心したような表情を浮かべる。そして、優しい声で言った。
「花輪さん、ありがとう」
「え?」
「俺を助けてくれて」
「いえ、私は大したことしてませんよ」
「ううん、そんな事ないよ」
彼の言葉には、別の意味もあるようだった。
けれど私には、それが何なのかは分からない。
「ねえ、花輪さん。俺にも屏風絵って、描けるかな」
「教えてほしいの?」
「うん、そうだよ」
「しょうがないなぁ・・・じゃあ、今度一緒にやってみようか?」
「本当!?楽しみだな」
彼は無邪気に笑っている。
こうして、私たちは本当の意味で友達になれたのだ。
[newpage]
「おおおお、海だぁぁぁぁ」
今日は海岸沿いの町で仕事だ。
潮風は屏風の天敵なので、注文は意外と多い。
「花輪さんっ、早く行きましょう!」
「はいはい、分かったから落ち着いて」
俺は苦笑いを浮かべながら、彼の後を追う。
「うわあ、凄いですね!」
彼は目を輝かせている。まるで子どものようだ。
「そうだねぇ」
「ねえ、せっかくだから泳いでいきません?」
「えっ、でも水着ないよ?」
「大丈夫ですよ。僕持ってますから」
彼はバッグの中から紺色のトランクスタイプのものを取り出した。
「なんでそんなの持ってんの?」
「ほら、前に言ったじゃないですか。もし海に行けたら着たいって」
「ああ、そういえば」
確かに言った気がする。
「じゃあ着替えてきますね!」
「うん、ここで待ってるよ」
しばらくして、雪村はTシャツと短パン姿で現れた。
「どうですか?似合ってます?」
「うん、まあまあかな」
「ひどい!」
「ははは、冗談だよ。すごくカッコイイと思う」
「そうですか?ありがとうございます」
彼は照れくさそうに頭を掻く。
「よし、行こうか」
+++
しばらく歩いていると、小さな洞窟を発見した。
「ここに入りましょうよ!」
「えっ・・・ちょっと怖いんだけど・・・」
中は真っ暗である。
「大丈夫ですよ、俺がついていますから」
「いや、そういう問題じゃなくて・・・」
「もしかして怖がりですか?」
「べ、別にそんなんじゃないし!」
「なら入りましょう」
「う、うん・・・」
二人で入るには少し狭い。
「あ、あれ・・・なんだか揺れてる・・・」
「ちょっ、動かないでください!危な・・・」
ドスンッという音と共に、俺たちは転倒した。
「いてて・・・」
幸いにも下が柔らかい土だったため、怪我はなかった。
「ごめんなさい、私が急に動いたから」
「いや、俺の方こそ悪かったよ。だから謝らないで」
そう言って手を差し出す。
「立てるかい?」
「あ、ありがとうございます」雪村さんの手を握ると、私は立ち上がる。
「あ、足が痺れてて・・・」
私の両足はプルプルと震えていた。
彼はクスリと笑う。
「なによぉ、笑わないで下さいよ!」
「ごめんごめん、なんか可愛くてさ」
「もうっ」
私はぷいっとそっぽを向いた。
「それじゃあ、また来るね」
私は目の前のお墓に向かって言った。
ここは私の実家の墓だ。
私の父の死因は、癌だった。
末期まで気づかなかったらしい。
父は亡くなる直前、私にこう告げた。
『母さんのところに行ってくる』と。
私はその言葉の意味を理解できなかった。
母は私が幼いときに亡くなってしまったからだ。
そしてそれから5年、私は母のことを忘れないようにと毎年この日にお参りに来るようにしているのだ。
(お父さん、お母さん、私、好きな人が出来たの)
お父さんは何て言うだろう。
私にはまだ早いって、怒るかな。
そりゃ確かに私はほかの女の子より発育が・・・その。あんまり良くないけどさ。
それでも、あの人のためなら。頑張れるの。
「じゃ、また来るね」
そう言い残し、立ち去ろうとする。
すると後ろから声をかけられた。
「あの、すんません。巌彩様の娘はんでいはりますか?」
「へっ? は、はぁ。そうですけど・・・」
「こんなに大きゅうならはって。お父君にはね、よく屏風絵をね、描いてもろたんですよ」
「あっ・・・えっと・・・その・・・」
「あ、すんまへん。申し遅れました。わし、西角言いますねん」
そう名乗った男性は、深々と頭を下げてきた。
「あ、どうも初めまして。花輪桜と申します」
「せや、これも何かの縁やし、お父君の屏風、見て行かはります?」
私は躊躇した。つい最近も中年の男性に嫌な思いをさせられたばかりなので、頭では分かっていても直感的に拒否反応が出てしまう。
だが、ここで断ると失礼にあたると思い直し、「是非」と答えた。
雪村君をちらっと見ると、私を励ますように頷いてくれている。
それが嬉しくて、仕方なかった。
「ほんまですか!ほなこちらどーぞ」
彼は嬉々として案内してくれる。
「こっちが、お父君の描いたものですわ」
そこには、猛々しく口を開いた「天龍」の屏風絵があった。
躍動感溢れる筆致で、一筆で描いたとすぐに分かる。
と思うと、傍らには細い線で世にも美しい天女の姿があり、その絶妙なバランスに思わずため息が出る。
「これが・・・お父さんの絵なんですね」
私は素直に感動していた。
「はい。どれも素晴らしいもんばっかりやと思います。いや、ほんま凄いわぁ」
彼は何度も褒めてくれる。
自分の親のことをここまで言ってくれると、なんだかむず痒い気分になる。
「あ、ありがとうございます・・・」
「いえいえ、娘さんが来てくださっただけで、ありがたいことですわ」
「あはは・・・」
「ところで、そちらはんは、花輪さんの旦那はんですか?」
「えっ!?そ、そんな、違いますよ!」
雪村君は一瞬驚いた顔をしたが、すぐさま笑顔で否定してくれた。
「あ、あらそうでっか。いやぁ、睦まじい様子やったさかい、てっきり」
「いや、だから違うんですってば」
「あぁ、それはすみませんでしたなぁ。それじゃあ、うちらはこれで」
「あ、はい。ありがとうございました」
私は丁寧にお辞儀をする。
彼は会釈を返してくれた。
「雪村君、ごめんね。せっかく来てもらったのに」
「ううん、いいんだよ。それより、良い人だったね」
「そうだね。また会いに行ってもいいかも」
「俺も一緒に行っていいかい?」
「もちろんだよ!」
私たちは笑い合う。
きっとお父さんも、この風景を見たんだろう。
そう思うと、不思議と心が落ち着くのだった。
その後、私達は縁側に座りながらお茶を飲んでいた。
すると、彼が突然切り出してきた。
「あの、花輪さん」
「ん? 何?」
「実は、話したいことがあるんだけど、聞いてもらっても良いかな?」
真剣な面持ちだ。
これは大事な話の予感。
「分かった。聞くよ」
「ありがとう。それで、その・・・」
「どうしたの?」
「じ、じつは・・・」
彼の顔が真っ赤に染まる。
「この先の料亭を・・・予約してあるんだ」
「ふぇっ?」
料亭ってまさか、高級なお店なのだろうか。
そんなお店の予約を、どうして・・・。
「ちっ違うんだその、教授が、おかみさんと知り合いで、それで依頼があるとかで、だからついでに食べてきたらって、他意はなくって」
しどろもどろになって弁明する雪村くん。その姿はとても可愛くて、愛おしかった。
「ぷっ」
「へ? は、花輪さーん」
必死に弁解する姿が面白くてつい吹き出しちゃったけど、それでも彼は私のことを笑わせてくれた。
こんなに優しい人がいるなんて知らなかったな。
最初は、銀髪のせいでちょっと怖いと思ってたけど・・・。
今はその横顔も、直視できないくらいまぶしく感じる。
私は、彼に恋をした。
「ねぇ、雪村君」
「はい?」
私は、精一杯勇気を振り絞って言った。
「好き」
耳に届いているはずなのに、彼は黙りこくってしまう。
「・・・俺は・・・・」
迷惑だっただろうか。
しばらく待っていると、困ったような、悲しそうな顔でこう言った。
「あ・・・もう予約の時間だ・・・」
そのときの彼の悲痛な表情を忘れることはないだろう。
恋を自覚したと同時に、私は失恋したのだ。
+++
「お越しやす、花輪せんせ」
到着したお店は、奥座敷が100つもあるという大きなところだった。
「お招きいただき、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げる。
「まぁ、今日は気楽に飲みましょうや」
「えっと、俺まだ未成年なんですが・・・」
「ははは!冗談ですよ。先にお仕事から始めます?」
「ええ、お願いします」
女将さんに連れられていった先ま、出来たばかりの離れであった。
「ここの新しい屏風10点に、ぜひ花輪先生の風神雷神の龍を描いてほしいんですよ」
「分かりました。では、早速取り掛かりますね」
そうして筆を取った瞬間である。
「あっ、ちょいと待った」
女将さんがストップをかける。
「はい?何かありましたか?」
「実は、もう一点頼みたいことがありまして」
「えっ?えぇっと、なんでしょう?」
「雪村さんも一緒に描いてあげてくれませんかね」
私はびっくりしてしまった。
「いやぁ、実はですね。三好先生から彼の描いた絵を見せてもろて、一目惚れしてしまったんですわ。美大生かと思ったら、三好先生のゼミ生だって言うし。どこかで勉強されはったんどすか?」
「えっ?とんでもないです。俺はただの新宿のヤンキーで・・・」
「ほんなら、授かりものなんやねえ。そんなわけで、お願いしますわ。あとはごゆっくり~」
女将さんは何やら含みのある言い方をして、去っていった。
「・・・・・」
二人きりの室内。しかも、告白を有耶無耶にされたばかりである。
気まずくない訳がない。
「えっと、雪村君・・・」
「はっはい!」
「あの、もし良かったら、一緒に描かない?」
「うぇっ!?」
彼は驚いているようだった。当然だろう。私自身、何を言っているのか分からない。
「いやその、そのほうが色々指示したりできるし・・・」
「あぁ・・・うん、そうだよね。それじゃあ、俺のほうからもよろしく頼むよ」
こうして私たちは、二人で屏風を描くことになった。
その時間は、長くないと分かっていてもとても幸せで、
(お父さんとお母さんも、こんなふうに絵を描いたんだろうか)
と、ふと考えた。
それから、私の想像が現実にならないことを思い出し、目からぽたぽたと涙が落ちる。
「・・・花輪さん?」
「ご・・・ごめっ・・・・大切な作品が・・・・っ」
「大丈夫だよ。俺が何とかするから」
「でも・・・っ」
「いいんだよ。花輪さんの気持ち、すごく嬉しいんだ。だから泣かないで」
彼の言葉が、私の心を溶かしていく。
やっぱり、諦めきれない。
私の心が叫んでいた。
+++
その夜は、美味しい海鮮料理と地酒に舌鼓をうちながら、和やかな雰囲気で進んだ。
女将さんが気を利かせたのか、私達は個室の奥座敷で二人きりだ。
「ねぇ、雪村君」
私は彼に向き直り、手を握った。
「はい?」
彼は不思議そうな顔だ。
「好き」
「えっ?」
お酒の勢いもあって、私はもう、止まらなかった。
「好き、雪村くん。絵を描いているときの手も、横顔も、うなじも、作務衣を着たときに見せる鎖骨も、優しい笑顔も、全部好き。私、こんなに人を好きになった事ないわ。ねえ、どうしたら良いの」
「は、花輪さん。落ち着いて・・・うわっ」
ずいっと無い胸を押しつけると、彼はそのまま押し倒されてしまう。
お酒も飲んでいないのに、ゆで蛸みたいに真っ赤になって固まっている。
「ねぇ、雪村君は、私が嫌い?」
「きっ、きらいなわけ・・・」
「なら、どうしていつも避けるの?」
「そ、それは・・・」
彼が目を逸らす。
私は、それを肯定だと受け取った。
「私ね、雪村君のことが好きなの。きっと初めて会った時から。あなたが困っている人を助ける姿を見て、素敵だって思ったの。私にも優しくしてくれた。嬉しかったの」
「花輪さ・・・んっ!?」
彼の唇を奪う。
「お願い、答えて。私は雪村君が好き。雪村君は?」
「お、おれは・・・」
彼は意を決したようにつぶやく。
「・・・おれの家、あんまりガラが良くなくて。絵とか芸術なんて、ぜんぜん縁がなくて・・・だからこの気持ちに名前を付けるのに、ちょっと戸惑ってしまって。俺、今すっごく楽しいです。東京にいた頃、こんなふうに感じることなんてなかった。花輪さんといる時も、感じたことないくらい幸せで、俺、絵を描くのも、花輪さんの事も、好きだ。大好きだ」
彼は消え入りそうな声で言った。
「ありがとう。私、今人生で一番幸せかもしれない」
私は彼の胸に頭を預ける。
「花輪さん・・・」
雪村くんの大きな手が、私の頭をなでる。
「桜って、呼んでも良いかな?」
「私も、楓って呼んでもいい?」
私達は二人で微笑んだ。
「桜・・・」
彼が私を焦がれるように見つめる。それから、私を抱き寄せて――
その瞬間に酔いがさめた私は、急に恥ずかしくなった。
「ま、待って!」
その言葉で彼は弾かれるように身体を起こした。
「そ。その。そういえば、今って試験期間中じゃない?」
「・・・そうだね」
いきなり水を差すような私の発言に、彼はすっかり白けてしまう。
「なのに、勉強しなくていいの?」
「うっ、それは・・・」
「約束して。ちゃんと卒業するまではキス以上はしないって」
「・・・わかった。キスなら良いんだね?」
そう言うと彼は私の襟をずらし、首筋に口づけをした。
「っ!?」
思わず声が出てしまい、慌てて口を塞ぐ。彼は私の反応を楽しむかのように、今度は耳元に息を吹きかけてきた。
「ひゃぅっ!?」
「可愛い」
男性に耐性のない私は、至近距離で炸裂される甘い言葉に脳みそが蕩けそうになる。
(あぁ、これ駄目かも)
彼の指先が、服の中へ侵入してくる。
その手を必死の思いで掴んで制止すると、彼は不満げに眉を寄せた。
「だ、ダメだって言ったでしょっ! わ、私、先に休みます」
「あっ、桜さ…」
そう言って、私は逃げるようにして自分の部屋に引っ込んだ。
その後、残された楓くんが自己嫌悪で悶絶していることなど、知る由もなかったのだ。
[newpage]
10月10日、水曜日。
三好先生に呼ばれた私は、侭田大学を訪れていた。
大学に行ったことのない私には、すれ違う人みんな私よりずっと頭が良い気がして、肩身の狭い感じがした。
21棟の造形文化研究室。
そこでは、古今東西のさまざまな美術や芸術についての研究が行われている。
宗教や民俗学、心理学との関連性を調べ、人間の創作意欲の根源を解明する―――という名目だが、実際は『古物修繕』がメインらしい。
三好先生は、この大学の准教授だ。
教室の扉を開けると、そこには三好先生の他に、もう一人いた。
「こんにちわー」
「ああ、来たわね。待っていたよ」
私は軽く会釈をする。
「紹介するよ。こちらが私の大学時代の後輩の柳瀬くん。彼も『修復士』として働いてくれている」
「よろしくお願いします」
柳瀬さんは、丁寧にお辞儀をした。
「はじめまして、柳瀬です」
「早速だけど、あなたの力を借りたいのよね」
三好先生は、いい顧客だ。
研究用と称して、簡単なお使いをさせたり、なんだかよく分からない作業をするだけでちょっとしたお金になる。
私は今回の依頼もふたつ返事で引き受けた。
「はいっ、私でよければ、何なりとお申し付けくださいっ!」
「頼もしいわね。じゃあ、これを直してほしいんだけど」
そう言って三好先生が差し出したのは、一枚の絵画だった。
「これは?」
「実はね、この屏風のなかの虎が先週から居なくなってしまったの。誰かに持ち去られたわけでもないし、鍵もかかっていたはずなんだけど」私はまじまじとその絵を見つめる。
「ふむ。確かにこれは『修復』が必要なようですね」
「そうなの? 私にはただの絵にしか見えないけど」
「まあまあ、任せて下さい」
そう言って私は、その絵画をひと目見て、すぐにその正体が分かった。
「なるほど・・・これは、呉須の水墨画ですね」
「流石、分かるんだね。そうなんだよ、この絵は中国の画家・呉須による作品よ」
「なんですって!?」
突然柳瀬さんのテンションが上がった。
「呉須と言えば『西遊記』にも出てくる伝説の絵師じゃないですか。でも、そんな作品のなかの虎がなぜ・・・」
「大丈夫。私に任せてください」
そう言うと私は画材を広げ、顔彩で「笹」を描いていく。
「これは・・・笹か?」
「虎は笹が好物なんです。きっとにおいを嗅ぎつけて、また迷い込んできますよ」
「えっ、そうなの?」
三好先生は驚いた顔をしている。
「はい。この絵は『笹に埋もれて眠る虎』というタイトルの作品です。この虎は笹を食べに来たときに、たまたま屏風にぶつかったのでしょう」「凄いな。まるで探偵みたいだ」
「それほどでも」
私は照れ笑いを浮かべた。
それから2時間後――
私の予想通り、虎は再び姿を現した。
柳瀬さんに教えてもらった通りに、部屋の鍵穴に鍵を差し込む。
すると、ガチャリという音とともに、ドアノブが回った。
「やった、成功だ!」
「やりましたねっ」
私たちはハイタッチを交わす。
「ありがとうございます。まさか本当に見つかるとは思いませんでした」
柳瀬さんは嬉しそうに言う。
「いえ、こちらこそ。お役に立てて何よりです」
「さすがね、桜ちゃん。それにしても、あなたたちすっかり仲良くなったわね」
三好先生が感心したように言った。
「はいっ! 柳瀬さんにはたくさん助けてもらいました」
「いや、僕は何もしていないですよ」
彼は謙遜するが、実際彼がいなかったら、こんなに早く解決しなかっただろう。
「そろそろお昼ね。柳瀬君、彼女を食堂に案内してあげて。それで良いかしら、花輪さん?」
「学食ですか!ちょっと興奮しますね!」私は胸を躍らせる。
「ははは、それじゃ行きましょうか」
柳瀬さんに連れられて、大学内のレストランに向かう。
「ところで、どうして修復士になろうと思ったんですか?」
歩きながら、柳瀬さんに尋ねた。
「うーん、最初は興味本位でした。日本画や水墨画には、あまり興味がなかったので」
「なるほど、そういう人もいると思いますよ」
「でも、今は違います。もっと知りたいです。自分の知らないことをいっぱい知って、たくさんの人に感動を伝えたいです」
「素晴らしいですね。私も応援していますよ」
「はは、それは嬉しいな」
柳瀬さんはとても爽やかな笑顔を見せた。
「ここが学内のカフェテリアです。ランチタイムは学生で賑わっています」
「ほほう、これが学食ですか」
「ぼくが奢りますから、好きなものを食べてください」
スパゲティにサンドイッチ・・・。どれも学生が食べる食事という感じがする。
どれにしようかと思い悩んでいると、見たことのある髪色が目に入る。
楓君だった。
彼は一人で食事をしていたが、私がトレーを受け取り食事を始めるときには向かいに女の子が座っていた。
私とは違い、お洒落な洋服を着ている子。
柳瀬君の話を流しながら、私はつい二人の会話に耳を傾けてしまう。
「――ねぇ、ええやん。付き合おうよ」
「いや、だから俺は別にそういうんじゃないんだ」
「またぁ。そんなこと言わずにさ、デートくらい行こうよ」
「……付き合ってもいないのに、デートはしない」
彼の口調は、私のときとはうって変わって冷たいものだった。
そのことが、私はどうしようもなくむず痒くなる。
「それに、彼女ならいる」
「ええええっ!?いつの間に!?ねぇねぇ、誰!?」
「バイト先の人」
「それってもしかして、年上?」
「・・・だから何?」
「・・・ふーん」
女性は不満そうにストローをすすると、言った。
「それって弄ばれてるんちゃうの?ちゃんと確認した?」
「何でそんな事言うんだよ」
「雪村って経験浅そうやん。騙されてへん?」
「彼女はそんな人じゃない」
「どうせ手出させてもらてへんやろ?うちも年下の時はそうやもん」
「・・・・・」
「雪村。うちならさ、そんな寂しい思いさせへんで」
「俺のことなんか放っとけよ。お前には関係ないだろ」
「関係あるわ。だってうちはあんたの――」
女性が何か言いかけたその時、私のスマホが鳴る。
「あ、ごめんなさい」
電話に出ると相手は三好先生だった。
「花輪さん?今どこにいるのかしら?」
「えっ、あっ、学食ですけど……」
「柳瀬君も一緒よね。実は、急用ができてしまったの。申し訳ないけれど、すぐ来てくれるかしら?」
「分かりました」
私は電話を切ると、柳瀬君に事情を説明した。
「分かりました。すぐに行きましょう」
「すみません。せっかく誘ってもらったのに」
「いえ、お気になさらず。またいつでも声をかけてください」
私達は急いで席を立ったが、人ごみにぶつかりよろけてしまう。
「きゃっ」
私は柳瀬さんに寄り掛かるようによろけてしまう。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ありがとう――」
その瞬間、いやな予感がして楓くんのほうを見ると――彼も私のほうを見ていた。
その手は、向かいの女性の手を握っており・・・。
私達はそのまま、何事もなかったかのように目を逸らした・・・。
+++
柳瀬くんと一緒に研究室に戻ると、あとから慌てて楓君も駆け込んできた。
「あれ、楓くんも呼び出されたの?」
「ええ、急用ができたとかで。それで俺達にも手伝って欲しいことがあるって」
「手伝い?」
そこに三好先生がやって来た。
「ああ、みんな来たわね。悪いんだけど、ちょっと手伝って欲しい事があって・・・。」
「手伝って欲しいことですか・・・?」
「実は・・・。これを見て」
三好先生は一枚の紙を差し出した。そこにはこう書かれていた――
「明日、トバール館の『貴婦人の朝日』を頂きにまいります。怪盗ルージュ」
「なっ、よっ、予告状・・・・!?」
楓君が驚いている。
確かに、東京では珍しいかも知れないが、私達には割と馴染みのあるものだ。
「これは本物なんですかね?もし偽物だとしたら・・・」
柳瀬君が尋ねると、三好先生が答える。
「分からないわ。でも、一応本物の可能性が高いと思う」
「どうして分かるんですか?」
「このカードが、他の館にはないものだったの。それに、差出人は"怪盗ルージュ"。つまり、これが本物である可能性は高いわ」
「じゃあ、警察に連絡しなくちゃ!」
楓君は慌てたが、三好先生は冷静に言った。
「警察はあまりこういうことには消極的でね。まずは、私たちだけで調べられるところを調べようと思って」
「なるほど・・・。ちなみに、盗むのはいつなんですか?」
「それが、今日の夜なのよ。だから今日中に何とかしないと」
「今日中って言われても、何をすればいいのやら」
「とりあえず、現場に行ってみましょう」
私達が連れてこられたのは、大きな洋館で、かなり古い建物だということが分かった。
「ここが、その美術館ですか?」
「ええ、そうよ」
「へぇ・・・結構大きいですね」柳瀬君の言う通り、外観はなかなか立派で、さすが美術館といった感じだ。
「じゃあ早速、館内に入ってみるわよ」
私達は、入口のドアを開ける。
「うわぁ~、なんか凄い雰囲気あるね」
「ええ。まるで映画の世界みたい」
入ってみると、そこはまさに西洋の絵画の世界で、思わず圧倒されてしまう。
壁一面に絵がかけられており、天井からはシャンデリアが吊り下げられている。
「すごい照明だ。テンペラ画なんて焼けてしまうんじゃないか?」
「こんな所で盗みなんて、俺にはできそうもないな」
「うん。ルージュは凄いね~」
「二人とも、バカな事言ってないで、早速着替えて頂戴」
「えっ?着替えるって、何にですか?」
「何のために連れて来たと思ってるの?ルージュは贋作とすり替えるのがいつもの手法。だから、パーティーに潜入して絵画のそばですり替えられるのを報告して欲しいのよ。まぁ、すり替えられないのが一番なんだけど」
「なるほど。私なら真贋がすぐに分かるという事ですね」
私は納得して、ドレスを受け取る。
「えーっと、どれを着ればいいんでしょう?」
「ええ、適当に選んでくれるかしら」
私はしばらく悩んだ末、赤紫色のドレスに決めた。
パーティーはすでに始まっており、私たちは主人の来賓という事になった。
楓君はどこに居るのだろうと辺りを見渡すと、どうやら給仕係として働いているようだ。
そして柳瀬君も一緒にいる。彼はタキシード姿だが、とてもよく似合っていた。
柳瀬君と話している楓君は、どこか不機嫌そうに見える。私と目が合うと、慌てて顔を背けた。
(やっぱり、まだ怒ってるのかしら)
その時、一人の女性が私の前に現れた。
「あの・・・お一人ですか?」
その女性は、美しい金髪を肩まで伸ばしていた。顔立ちも整っており、いわゆる美人と呼ばれる部類に入るだろう。
彼女は私より少し年上だろうか。大人びた印象を受ける女性だった。
「ええ、そうですけど・・・」
私が返事すると、彼女の頬がほんのりと赤く染まった。
「良かったら、私と一緒に飲みませんか?」
「いえ、そういうわけには・・・」
「いいじゃないですか。ちょっとだけですよ?」
そう言うと、強引に私の腕を引っ張った。
楓君とはぐれてしまったし、ここで断ったところで状況が悪化するだけだ。
「分かりましたから、そんなに引っ張らないで下さい」
私は仕方なく承諾した。
+++
「まあ、そんなお若いのに、立派な絵師さんなのね」
「いえ、それほどでも・・・」
先ほどの強引な誘いとは裏腹に、この人は私を優しくエスコートしてくれた。
「あなたのような素敵な方に会えて嬉しいわ。よかったら、何か私に話してくれないかしら?」
「ええと、それじゃあ、どうしてこのパーティーに参加したんですか?」
「あら、それを聞いちゃう?実はね、怪盗ルージュに興味があるの」
「そうなんですね。ルージュって、どんな怪盗なんでしょう?」
私が尋ねると、彼女はクスリと笑った。
「それは、秘密」
「えっ?」
彼女が人差し指を口に当て、にやりと微笑んだ瞬間、辺りが真っ暗闇に包まれた。
「て、停電!?」
突然の出来事に戸惑っていると、私のすぐ横で悲鳴が上がった。
「きゃあああ!!」
見ると、そこには仮面をかぶった男性の姿が。
そして、小脇には額縁を抱えている。
「ご機嫌よう、皆さん。今宵は私のためにお集りくださり、誠にありがとうございます。この後もどうぞ素敵なディナーをお楽しみ下さい。それでは、またいつか」
それだけ言い残すと、怪盗は窓を突き破り逃走した。
「待て!」
誰かの声が聞こえたかと思うと、照明が再び点灯する。
そこに居たのは、楓君と三好先生。
「お前達!そこで何をしている!」
そこには警察の姿があった。「まずいわね・・・」
「ど、どうします?」
私達が焦って話し合っていると、一人の男が近付いてきた。
「失礼いたしました。私は警視庁の者です」
その男は、スーツを着た男性だった。
「警察の方ですか?」「はい。今回の一件は、我々に任せて頂けますでしょうか?」
「しかし、奴は逃走中なんですよ」
「大丈夫です。必ず捕まえてみせましょう」
「待ってください」
私は話に割って入った。
「私には犯人が分かりました」
「えっ!?」
「どう言うこと、桜ちゃん」
三好先生が驚きながら尋ねてきた。
「おそらく、怪盗ルージュの正体はこの人です」
私はそう言って、柳瀬さんを指さした。
彼は、動揺した様子を見せる。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
「あなたは絵画に詳しくないと言ったのに、『貴婦人の朝日』がテンペラ画だと知っていました。その理由は・・・」
私は彼の目をまっすぐに見つめる。
「あなたの正体は怪盗ルージュですね?」
「ち、違う。俺は柳瀬だ」
柳瀬君は否定するが、三好先生も楓君も納得いかないようだ。
「待って、桜ちゃん。柳瀬君は私の大学時代からの後輩なの。怪盗なんてするはずがないわ」
「ええ、そうでしょうね。彼が『本物の』柳瀬さんだったとしたら、ですが」
「何だって・・・?」
「さすがに調べても分からなかったようですね、ルージュ。黙っていたけど、私と柳瀬さんは幼馴染なの。今彼はアメリカにいるはず。そして彼は左利きよ!」
私がドヤ顔で推理ショーを展開すると、柳瀬君はけらけらと笑い始めた。
「あっはははは・・・・。さすが、桜ちゃんは昔から思い込みが激しいよね」
「・・・・えっ!?」
「確かに僕は左利きだけど、両利きに矯正したんだ。それに、『貴婦人の朝日』についても下調べをしていた。本当はボストン美術館にいる予定だったんだけど、母に呼び出されて昨日戻って来たんだよ。婚約者が決まったからってね。そう・・・君のことだよ、桜さん」
「えっ・・・・ええええっ!?」
そうこうしている間にルージュの痕跡はなくなり、私達は彼を取り逃がすことになったのだった。
[newpage]
それから数日後のある日のこと。
「桜、ちょっとええか」
母に呼び止められた私は、いよいよあのことかと覚悟した。
「あのな。おかあちゃん、再婚することにしたんやわ」
「そうなんだ。おめでとう」私は平静を装って言った。
「ありがとう。あなたには迷惑をかけてばかりやね」
「いいんだよ。それより、相手の人はどんな人なの?」
私は母に尋ねた。
「とても誠実なお人や。優しくて、頼り甲斐があって」
彼女は幸せそうに話す。
「へぇー、素敵な人と出会えたんだね」
「だから、もう雪村くんに頼る必要はないんやで」
―――
母の再婚。
それはすなわち、楓くんが用済みとなる瞬間だった。
「でも…お母さん」
「それに、あの子ももうすぐ卒業やろ。就活やら卒論やらで、もうバイトしてる暇ないで」
「・・・・。」
私は黙り込む。確かにその通りなのだ。彼は既に就職先を決めていた。
「ほな、また連絡するわ。新しいお父ちゃんには内緒にしとくから」
「分かったよ」
私は力なく答えた。
「あ、それとこれあげるわ」
「これは?」
「アルバムや。あんたが産まれてから今日までの記録や」
私は中を見る。そこには父と本当の母の写真がたくさん貼られていた。
「ありがとう」
「あんたも彼氏ができたら見せてやり」
「・・・うん」私は写真を見ながら答える。すると、そこには柳瀬くんの姿があった。
「柳瀬君とお母さんがどうして一緒に?」
私は母に尋ねる。
「ああ、それはな……」
私は息を飲む。そして、次の言葉を待った。
「実はその人、うちの息子なんや」
「え?」私は耳を疑う。
「まさか、そんな偶然があるわけないじゃないですか」
「それがあったんや。信じられへんかもしれへんけど、あの時、うちの夫は交通事故に遭って死んでしまったんや」「・・・。」
「その時、まだ赤ん坊やった息子だけ取り残されたんや。それがこの子や」
「じゃあ、本当に・・・」
「そう、うちの息子や」
私は驚きすぎて言葉を失う。
しかし、それと同時に妙な納得感もあった。何故なら、母と婚約者の顔はよく似ていたからだ。
「それで・・・親は今どこにいるの?」
「今は海外にいるはずや」
「どうして日本にいないんですか?」
「仕事の関係でね。向こうの方が日本より住みやすいって言ってたわ」
「・・・そうですか」私は肩を落とす。
「まあ、そんなに落ち込まんといて。あんたはこれからあの子と新しい人生を歩むんやで」
母は笑顔で言う。
「そうですね」私は無理矢理笑みを浮かべる。
「じゃあ、そろそろ帰るから」
「気をつけて帰って下さいね」
「大丈夫やって!じゃあな!」
母は笑顔で去って行った。
+++
それから一週間後。
「・・・今日は来てくれなかったか」
私は一人呟く。
結局、彼が私の前に現れることはなかった。
きっと母との約束を守ってくれたのだ。
「ありがとう・・・楓くん」
私は涙を流しながら言う。
こうして私の初恋は終わりを迎えた。
――現在。
「ふう・・・。」
私はため息をつく。
彼との思い出は楽しいものばかりだった。
でも、それも過去形だ。彼はもう私のことを覚えていないだろうし、私が彼の家に行っても会ってくれないだろう。
何せ、今の彼は立派な社会人なのだから。
「会いたいなぁ・・・」
私は思わず呟いた。
その時である。突然、スマホが鳴る。
画面を見ると、そこには『楓くん』の文字が表示されていた。
(えっ!?)
私は驚いて電話に出る。
「も、もしもし!」
「あ、もしよかったら明日一緒に映画でも見に行きませんか?チケットが二枚あるんで」
「行きます!是非行かせてください!!」
私は勢いよく言う。
「良かった。それでは明日の朝9時に駅前で待ち合わせましょう」「はい!」
「それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
私はそう言うと、すぐに電話を切る。
そして、急いで身支度を始めるのであった。――
翌日。
「あっ、楓くん」
私は手を振って呼びかける。すると、楓くんがこちらに向かって歩いてきた。
「おはようございます。ドレスも素敵でしたけど、やっぱり和服が一番似合ってますね」
「ふぇっ///」
いきなり褒められて、私は動揺する。
「ど、どうも・・・///」
「じゃあ、早速行きましょうか」
楓くんが歩き出す。
「はい♪」
私はその後ろ姿を見つめる。その背中は大きく見えた気がした。
「なにか、おすすめの映画ありますか?」
私は彼に尋ねる。
「そうですねぇ……これなんてどうでしょうか?」
楓くんが一枚のチラシを見せる。それは恋愛映画のポスターだった。
「ラブストーリーですか?」
「はい。好きなんですよ、こういうの」
「へー、そうなんですか」
私は興味なさげに答える。
正直、あまり好きではないジャンルだ。
「じゃあ、これにします?」
「いえ、私は別に……」
「せっかく来たんだから一緒に観ようよ」
「え?」
私は目を丸くして彼を見る。「だから、僕も見るんだよ。二人で見た方が楽しそうだろ?」
「そ、そうですね」
私は少しだけ胸を高鳴らせながら答える。
「よし、決まり。じゃあ、入ろうか」
私たちは映画館の中に入る。中は薄暗く、上映を待つ人たちで賑わっていた。
「飲み物買ってくるけど、何が良い?」
「じゃあ、コーラお願いします」
「わかった。席に座って待っていてくれ」
そう言うと、彼は売店の方へと向かっていった。
私は言われた通り、指定された座席に座る。しかし、隣には誰もいなかった。周りを見てみると、みんな友達同士で来ているようだ。
私は一人で映画を観るのは初めてだったので、緊張していた。
「うぅ……」
私は小さく声を上げる。
それからしばらく経って、彼が戻ってきた。手には二つのドリンクを持っている。「はい、コーラだよ」
「ありがとうございます」
私はそれを受け取って一口飲む。
「あれ?僕の分は?」
「え?あぁ、ごめんなさい。忘れていました」
「そうか」彼は苦笑いを浮かべる。
「あ、あの、楓くんはどんな映画が好きなんですか?」
私は話題を変えようと質問をする。
「ん?ああ、僕はアクションとか好きだな」
「じゃあ、今度そういうのも見てみますね」
「うん。あ、始まるみたいですよ」
館内が暗くなる。いよいよ映画が始まるのだ。
それから約30分間。私達は黙ってスクリーンに集中した。
「面白かったですね」
私はエンドロールを見ながら言う。
「だよね!僕も久々に良い作品を見た気分だ」
「私もです!」
私たちは満足気に話す。
「さて、次はどこに行こうか」
「えっと、私はどこでも大丈夫ですよ」
「そうですか。それなら、ゲームセンターに行きませんか?」
「いいですね。行きましょう」
私たちはゲームセンターへと向かう。
道中、私は気になっていたことを尋ねてみた。
「あの、今日はどうして誘ってくれたの?」
「ああ・・・。」
楓くんは立ち止まり、ばつの悪そうな顔をした。
「俺・・・・東京に帰るんだ」
「えっ!?」
「家業を継ぐことになって」
「家業って・・・」
「水商売だよ。・・・新宿のね」
「そっか・・・」
(やっぱり、もう会えないんだ)
私は俯いて涙を流す。
「だから最後に君に会いたくなって」
「えっ!?」
私は驚いて顔を上げた。
「でも、まさかこんなにつらくなるとは思わなかった。いつか帰らなきゃいけないことくらい、分かってたのに」
楓くんは泣きそうな表情で呟く。「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」
私は慌てて謝る。
「いや、こっちこそごめん。でも、どうしても言いたかったんだ」
「・・・うん」
「本当にありがとう。君のおかげだったよ」
「私のおかげ?」
「ああ、そうさ。君のおかげで俺は変わることができた。感謝しているよ」
「そっか・・・」
私は頬を緩ませる。そして、彼の目を見つめながら言った。
「こちらこそ、ありがとう。あなたと出会えて良かった」
「そうか。じゃあな」
楓くんが背を向ける。
「またどこかで会いましょうね」
私は笑顔で言う。
楓くんは振り返らずに手を振った。その背中が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
「ただいまー」
家に着くなり、私はベッドにダイブする。
「疲れた~……」
今日一日を思い返す。とても充実した日だったと思う。
「明日から頑張らないとな」
私は自分に喝を入れるように呟いた。
「ん?」
スマホを見ると着信が入っていた。相手は柳瀬くんからだった。
『明日暇?』
メッセージにはそう書かれていた。
「ふふっ」
私は笑みを浮かべる。
『うん』
私は短く返事を送る。するとすぐに返信が来た。『デートしよ!』
「で、デッ……」
私は思わず声を上げる。しかし、よく考えるとこれは普通かもしれない。だって、私たちは付き合っているわけだし……。
『いいよ』
私は承諾のメールを送った。少しして、今度は電話がかかってきた。私は通話ボタンを押す。
「もしもし」
「あっ、桜?いきなりごめんね……」
「ううん……、どうしたの?」
「いや、なんか声聞きたくなって……」
「えっ?」
「あぁ、変なこと言ってごめん。とにかく、また明日ね!」
「う、うん」
私は急に言われて驚いたけど、嬉しかった。
「あぁ、そうだ。来週は桜の誕生日だよね?何か欲しいものとかある?」
「いや、別にないかな」
「遠慮しないで!何でも良いんだよ」
「じゃあ、旅行に連れて行ってくれる?二人で」
「もちろん」
彼は即答してくれた。
「やった!」
私は飛び跳ねるように喜ぶ。
「じゃあ、決まりね」
それから私たちは他愛のない話をした。
私にとって最高の時間が流れる。
そう、あの人との恋はもう、終わったのだ。
前を向かなければならない。


3月7日土曜日。私は待ち合わせ場所に来ていた。
「まだ来てないかぁ」
周りを見るが、誰もいないようだ。
私は近くにあったベンチに腰掛ける。(あと1分か)
私は時計を見ながら待つ。今日は彼と遊園地に行く約束をしていた。
しばらくして、遠くの方から柳瀬くんの姿が見える。私は大きく手を振る。
「お待たせ」
「遅いよ!」
「悪い悪い」柳瀬くんは苦笑いをする。
「さっそく行こっか」
「おう!まずは何に乗る?」
私たちはゲートに向かう。
「あれなんてどうかな?」
「いいね。乗ろうか」
私達はジェットコースターに乗り込む。
「楽しみね」
「ああ」
順番が来るまでの間、私はドキドキしていた。
やがて、私たちの番になる。
係員の指示に従い、席につく。
「大丈夫?」
隣にいる彼が心配そうな表情をしている。
「うん。平気だよ」
私は笑顔で答える。
そして、ゆっくりと動き出す。窓の外では景色が流れていく。
「綺麗……」
夕日に照らされた街は輝いて見える。
私はそれを眺めていた。
「ねえ、柳瀬くんくん」
「ん?」
「ありがとう」
私が言うと、柳瀬くんくんは微笑む。「どういたしまして」
しばらく沈黙の時間が続く。
「ねえ、柳瀬くんくん。私って可愛くなってる?」
私は恐る恐る聞いてみる。
「ああ、可愛いよ」
「そっか……」
私は下を向きながら呟く。
「でも、俺が好きなのは三好先生だけだけどね」
「えっ!?」
私は驚いて顔を上げる。そこには優しい表情をした彼がいた。
「実は今日、雪村君を呼んであるんだ。」
「えっ?」
私は頭が真っ白になった。
「午後四時に、観覧車前で待つように言ってある。・・・ちゃんと会ってあげて欲しい」
そう言い残し、柳瀬くんは悲鳴とともにジェットコースターを降りていった。
+++
(なんでこんな事に……。)
観覧車のゴンドラがゆっくり上がっていく。窓から外を見ると、夕焼けに染まった街並みが広がっていた。
目の前には――同じように戸惑った楓くんが座っている。
(うう、気まずい)
私は膝の上で握り拳を作りながら俯いていた。すると、「桜さん」
突然名前を呼ばれた。私はビクッと肩を震わせる。
「なっ、何ですか?」
私は声を上ずらせながらも返事をする。
「僕と結婚して下さい」
「へっ?……えっ、今なんて?」私は耳を疑う。すると彼はポケットの中から小さな箱を取り出した。
その中に入っていたのは指輪だった。
「桜さん、僕はあなたが好きです。結婚して下さい」
彼の真剣な眼差しが私の目を捉えて離さない。
「わっ、私は……」
私は言葉に詰まる。嬉しいはずなのに、なぜか涙が出そうになる。
「お願いします」
彼も緊張しているのか、額に汗が浮いているのが見える。
「……はい」
私は小さく答えた。それを聞いた瞬間、彼はほっとしたような顔をした。「良かったぁ」彼はそう言って胸を撫で下ろす。
「ごめんなさい」
私は謝罪の言葉を口にする。
「えっ?どうして謝るんですか?」彼は不思議そうな表情を浮かべている。
「だって、私は……」
私は唇を強く噛む。そして、自分の気持ちを打ち明ける事にした。
「この町を出られない・・・東京に行くのは無理だわ」
「じゃあ、僕が残るよ」
「えっ、でも、家業があるって・・・」
「そんなもの、どうだっていい。僕は君の傍にいたいんだ!」
そう言った後、彼は私を抱き締めてきた。
私は目を瞑り、彼に身を委ねる。


「おめでとうございます!」
係員の声と共に、扉が開かれる。
私は慌ててゴンドラから降りる。そして、足早に立ち去ろうとするが、彼に腕を掴まれる。
「待ってよ。せっかくだし写真撮ろう」
「えっ、でも……」
私は困惑した表情を見せる。
「ほら、早く!」
私は半ば強引に手を引かれるような形で園内を歩く。「じゃあ、撮りますよー!」
係員の掛け声と同時にシャッター音が鳴り響く。
私達は互いに見つめ合う。そして、自然と笑顔になる。
「次は二人だけで撮りましょうね」
私は係員に向かって話す。
「もちろんです!ぜひ、お二人で!」
係員は私達を誘導し、撮影場所へと連れていく。
「はい、笑ってくださいね」
カシャっと一枚の写真が撮影された。
+++
「桜さん」
「なに?」
「幸せになろうね」
「うん、そうだね」
私たちは笑い合い、夕日に照らされる街を見下ろしていた。
「ねえ、楓くん」
私は彼の手を握る。
「ん?」
彼は私の方を見る。
「大好きだよ」
「俺もだよ」
そして、私たちはキスをした。
唇に、そして、頬や耳にも……。
「んっ……」
彼が声を漏らす。体が熱くなるのを感じる。
私と彼は観覧車を降りた後も、一緒に園内を歩いていた。彼の手が私の手に絡まり、しっかりと握られている。
「ちょ・・・桜さん」
「なに?」
「く・・・くすぐったいです。あと、恥ずかしい・・・」
「えぇ~、別に良いじゃない。私たち夫婦なんだし」
「そっ、それはそうなんだけど・・・」
彼は少し困った表情をしている。
(もう少し、このままで居たいな)
私は彼の手を握り返す。すると彼はますます熱くなった。
「だって、楓くんが恰好良すぎて、離れられないんだもん」
私はそう言って彼に抱きつく。
「おっ、おい」楓は私の体を引き離そうとするが、私はそれに抵抗する。
その時だった。
突然、私の視界が暗転する。
「えっ!?」
どうやら、楓さんが私に覆い被さったらしい。
「桜」
「なっ、何?」
いつもより低い声に驚き、私は恐る恐る楓の顔を見た。その顔は見たこともないくらい、蕩けていた。
「桜って、鈍いよね」
「へっ?」
「そんな事されたら、俺だって我慢できなくなる」
そう言うとぐいっと私の腕を掴み、そのまま私を抱きかかえた。
「えっ!?楓くん、ちょっ」
「もう一回観覧車乗りましょ、桜さん?」
そう言った彼の目はうつろだった。「ちょっと、まっ」
私は抵抗しようとするが、時すでに遅し。彼は私を抱えて走り出した。
その後、密室の観覧車の中で何が起こったかは、ご想像にお任せします。

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