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ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン 傲慢な終末 〜すめうじと並べて〜

「ゲーミング自殺、16連射アルマゲドン」(以下、公式の略称に従って「ゲーマゲ」と呼称)は、2022年10月22日から12月31日にまでインターネット上の小説投稿サイトアルファポリスで連載されていた小説である。作者は前作、前々作で「Vだけど、Vじゃない!」(「VV」と呼称)「皇白花には蛆が憑いている」(「すめうじ」と呼称)を連載しており、本稿では主にゲーマゲと作風の似た後者を取り上げる。さしあたっては、アルファポリスにおける作者のページを挙げるので、未読の方が居られたらそちらを参照していただきたい。

(本稿ではあまり言及はしないが、前作のVVはなぜかアルファポリスに転載されていない。そのため、読みたい方はカクヨムに飛ぶ必要がある。面白いので気になった方はぜひ)

素人が素人の小説について語ることは難しい。職業として小説を書いている人間であれば、絶対に担保しなければいけない一定のラインが存在することは明確だ。それは商品として成立するかどうかであり、あらゆる小説家、漫画家、編集者、創作に関わるプロの人間は、その下限を超えたと判断するものを世に出すことはしない。前提となる商業作品としての要請に従った上で、この作者はどうとか、西尾維新は推理を放置してラノベを描く、とかを言われる。

だがその前提が存在しない素人である私たちにとって、何が有益なのかは甚だ曖昧である。時間で割ったプレビュー数が多いことか、サイト内のランキングで一位を取ることは、よりよい指標になるかもしれない。だがしかし、商業作家にとってのそれよりは、絶対的な基準ではない。極端な話、趣味で書いている小説なのだから自分が楽しければ良いのであり、批評という行為すら必要ないかもしれない。これは、とりわけ価値観の異なる二者間が利益を共同で模索する批評という営みにおいては、営為のゴール地点を揺るがす事項であると言える。もし批評する側が自分のローカルな好みにしか過ぎないことを押し付けてしまえば、批評される作品が持っていた固有なことを損なってしまう場合がある。二次創作におけるキャラ解釈の問題はそれに近い。商業的作家においては、商品のクオリティを管理する編集者は、商品のクオリティを管理するという名目で作家の作品を批評できる。そうでないインターネットにおいては、逆に素人が素人の作品を批判することは忌避されることが多い。

目指すべき方向が違えば、批評はその有効性を失う。だが今回は、それらの問題を一旦傍に置く。私は好きなことを思ったまま言う。それに理由がないことはないが、後で述べる。

以下に、ゲーマゲの批評をするにあたってポイントになりそうな論点をまとめた。論点ごとに個人的な感性に基づく分析を行った。なお、私はロランバルトの「作者は作品に対して何ら特権的な存在ではない」という説に賛成もしないし反対もしていない。作者が作品を生み出すことは確かであり、生み出す時点での作者の感性が多分に作品に影響しているという点では、作者の意図を読むことの考察は無意味ではないと考えている。これはむしろテクスト論とか高尚なものではなくて、オタクの「クレヨンしんちゃんの映画版は監督ごとにテーマの違いがあって〜」とか言っているのと同じである。言語学における「再構」は、複数の言語からその祖となる祖語を導き出すことを意味するが、感覚的にはそれが近い。

1. ゲーマゲには山場がないのではないか(自分の所属する世界を失った主人公の彼方は固有の物語を持てていないのではないか)

ゲーマゲには10の世界が登場する。個々の世界は個々の問題を持つ。終末世界で発狂した機械が暴走していることであったり、魔法世界で魔王が全ての悪を執り行っていることであったり、魔法少女世界で事件の後遺症から立ち直れない主人公がいることであったりなど、その問題は多岐に渡る。そして問題を持つことは物語を持つことと同じである。私は、世界ごとの問題を世界が持つ物語の素養であると解釈している。その問題から自由なのは、彼方を含める貫存在たちだけだ。

ゲーマゲは、この「問題」から俯瞰した態度を取っている。一つの作中に10の問題を持つ世界を登場させるという作品の構造がそうだし、彼方の一つの問題に頓着しない合理的な性格からもそれは伺える。

「俺の弟は魔王のせいで足を滑らせて今も歩けないんだぞ!」
「そんな魔法はない。人には不運がある」
「私の母は魔王のせいで衰弱して死んだ!」
「そんな魔法はない。人には寿命がある」
「俺の友達は魔王に操られた! 酒場で暴れ回って縛り首になった!」
「そんな魔法はない。人には悪意がある」

 ゲーマゲ 第11章鏖殺教室 第56話:鏖殺教室・1より引用

これによってコンセプトに波及する問題は、世界は物語を有しているが、それに皮肉や正論で返すことでかえって自分の物語がないことを明らかにしていないか、というところである。ゲーマゲは、起承転結、序破急、三幕構成や金子満の13ロット構成、そのいずれでも当てはめて解釈できない。世界には伏線やセットアップが十分にあるものの、彼方自身には元々ゲーマーだったというバックグラウンドとそれを自ら破壊したということくらいしか述べることがない。一応、あらゆる世界を循環して、かつてVAISやローチカ博士とともに作った世界に戻ってくるなどの伏線はありうるが、それも単に世界は環状であるという事実を述べるに止まる。全く物語的ではない。

奇妙なことに、彼方が貫存在で物語を失っていることと、ゲーマゲの全体に山場に欠ける構成は表裏一体だ。これは作者が自分の意図通りに書きたいことを表現できているということで、驚嘆に値する。素人の場合(そしてプロでもたまに)、書きたい一方で能力上の表現できていない部分があるものであるが、ゲーマゲではほとんど書きたいことと書けることが一致している。本稿で一つの論点に形式上の問題と思想上の問題を併記したのは、それが理由である。この物語の構造や形式と内部で動いている思想が皮を挟んで一体化しているという特徴は、作者の前々作のすめうじにも見られる。

また、主体性と人称の結びつきに関する指摘を受けた。『すめうじ』は一人称と三人称が適当に混在する形式で書かれているのだが、個体が一人称的、群体が三人称的という対応関係が見いだせる。個体が明らかに唯一の視点を持つ一方、群れ全体に拡散した主体性を持つ群体の視点はどこにあるのか定まりにくいからだ。
実際のところ、俺は小説の書き方をよく知らないので一人称と三人称はかなり適当に使っていて全く意識していなかったが、そういう見方をすれば得られるものもあるかもしれない。

20/3/29 百合萌えラノベ『皇白花には蛆が憑いている』解説
より引用

これは能力の都合上通常とは異なった形式で書かれていることが、すめうじの群体性のテーマと付き合わせると面白い読みができるという意味だ。

すめうじの人称のぶれとゲーマゲの彼方の固有の物語が持てない状況は、どちらも思想面と形式面から一致している。彼方は、世界を渡り歩く「貫存在」で、毎回世界を全てベットさせた勝負を行い、世界を移動するごとに受けた傷を回復させる。これは、そのまま「世界」ごとに異なった事情を持つ話が展開するゲーマゲの構造とよく似ている。

私にとってこれは減点要素だ。正確には、世界ごとの固有の話をやった上で、彼方の固有の物語を持たせることはできたと考えている。例えば、世界が環状であることを理解した彼方が絶望し、それでもなお哲学的な新しい理論に辿り着いて、終末器で「問題」を乗り越えてしまうというプロットはあり得た。もちろんオートポイエーシスは世界の環状の構成を前提とするものだから、これはただの一例にすぎない。コンセプトは崩さなくても良いが、そう見えるような形式上の工夫は必要であった。

論点の内容をまとめるとこう

  • 形式面では、ゲーマゲには山場がない。起伏にかけ、物語的な面白さではない。ただ理論的な解決を見たいのであれば、論文や書籍を読めばいい。

  • 思想面では、彼方は貫存在になったことで固有の物語を破棄したのではないか。それは果たして良いことなのか。

2. ゲーマゲの提示する面白さは読者に伝わったか(理論面で正しいことは実践的にはどうなのか)

ゲーマゲは、メタなゲームを巡る物語である。一般的なメタゲームの意味については以下を参照されたい。砕いて言えば、ゲームの外で展開されるゲームである。じゃんけんのグーが流行っている教室でパーを出せば給食のプリンを手に入れられる。

https://gamer2.jp/post/meta-game/

ではゲーマゲにおけるメタゲームの扱いはどうだろうか。ゲーマゲにおいて、主人公の彼方が戦いを成立させるためにはいくつかの課題を乗り越えないといけなかった。大雑把にまとめると、それは「彼方が強すぎて戦いが成立する相手がいないこと」「相手が戦いをしたいとは限らないこと」の2者である。前者は、タワーディフェンス風ゲームの世界でイツキに行い、魔法世界で鏖殺教室の皆に行った教育方法で解決を試みている。後者は、此岸の世界便によって解決された。前者は解決されていないが、後者は特に物語的な根拠のない異常現象によって解決されたという特徴がある。教育は、彼方が自ら考案したことでやや解決策としてのポイントが高いが、いくら哲学的なバックグラウンドを持っていても、世界便による解決は面白くない。

「理論的な面白さは、物語的な面白さと繋がらない」と言いたいわけではない。実は、理論的な面白さを売りにしている作品はいくつもある。卑近な例えで申し訳ないが、古典的な迷宮や怪物に生態学的/生理学的なアンサーを与えたのは「ダンジョン飯」だし、「もやしもん」や「惑わない星」は本筋をそっちのけでずっと理論的な話をしている。「涼宮ハルヒの憂鬱」が提示する時間平面理論が面白いのは、キョンがタイムリープを繰り返すからだ。最後にあるキャラが無条件に強いことの補足をしておくと、「キノの旅」でキノが無条件に強いのはキノが旅人だからだ。旅人は、ある国の出来事に深く関わらない限りにおいて神に近い。普通国を丸ごと破壊する人間を旅人とは呼ばない。

問題は、理論面の正しさを世界の法則レベルの貫存在の能力に還元してしまったところだ。それは前提であって、話のメインにできる内容ではない。前提をメインのゲームにするメタゲームが主題の小説としては、世界便として簡単にまとめられるものではなかった。初見の連載時では、私は彼方がゲームを成立させた後の話をメインとして読んでいた。なので、理不尽な性質を持つ世界便の話とは関係なしに、彼方が最強メイドのジュリエットと戦うアンダーグラウンド世界編の私の評価は高い。逆に彼方は敵で、ジュリエットは世界を外敵から防衛するアベンジャーズだ。彼方の戦う理由がこれまでを見てきて詳細にわかっているだけ、この傲慢な戦争に立ち向かわねばならないという感情が湧いてきていた。ジュリエットが彼方を傷つける度にワクワクした。心の奥底では、理不尽な理由で世界を滅ぼす彼方に腹が立っていたのだ。

論点の内容をまとめるとこう

  • 形式面では、読者に問題解決の面白さを提示できていなかった。特に世界便の能力は、戦いを成立させるための「前提」であって、本題ではないように見える。この能力が物語的に依拠すべき立ち位置はない。

  • 思想面では、理論的に正しいことは実践的にも正しいのだろうか。特に、彼方やその仲間たちが「これはオートポイエーシスだから」と言って、理論面の正しさを押し付けることにどの程度の正当性があるのだろうか。

3. どのような文脈を生成すれば美少女を無罪にできるか(美少女は本当に無罪なのか)

ゲーマゲで忘れてはいけないのは、すめうじから引き継がれた美少女無罪の意識である。すめうじではより詳細に述べられているが、ゲーマゲでも名ありのキャラクターはイラストのついた美少女しかいないという特徴で残っている。美少女だからこそ世界内の弱い存在を鏖殺することが許されているし、見る側も負担がないだろうというコンセプトで書かれているのがゲーマゲだ。仮に素人でも文脈を生成する営みであるところの小説の執筆に挑もうとする私たちにとって、美少女は無罪なのかという疑問は、そのままどういう文脈なら美少女は無罪なのかという疑問に行き着く。すめうじでは文脈が生成されて美少女が無罪になったが、ゲーマゲではそれに失敗していると私は考えている。以下に説明する。

別に美少女は無罪ではない。弁護士に聞けば、ガチギレされるか、日本国憲法を丸ごとコピペしたものが返ってくるだろう。オタク内のアニメで美少女が無罪と取れるようなアニメシーンもいつ何時無条件で許されるといったわけではないはずだ。オタク内部では美少女は無罪、そうは言ってもオタクごとに感性の違いはある。私は、個人的にはゲーマゲにおける彼方のアクションは大きく許容範囲外で、それが何も物語的に意味のあるものとして回収されずに話が終わったという印象を持っている。

すめうじで成功していたのは、アンダーグラウンドの無法性+ジュリエットの存在の組み合わせよる文脈の生成だ。すめうじでは、世界は自由を謳歌するアンダーグラウンドと平等に依拠するポリコレ世界に分かれている。主人公である白花が遭遇するのがアンダーグラウンド側の暗殺者であるジュリエットであり、特徴的なのは以下の演説だ。

インタポレーション以降、人間の価値を必要以上に複雑に考える風潮が蔓延りすぎております。……わたくしに言わせれば、人間の価値なんて文字通り見ればわかるものでしかありません。容姿こそ、先天的かつ無根拠であるが故に究極の価値を担保するので御座います。容姿など偶然決まるサイコロの目に過ぎないと仰る方もおられますが、逆にいったいどうして誰でも努力すれば得られるような能力に至上の価値を与えることなどできましょうか?

すめうじ  第5章人生美味礼讃 第13話人生美味礼讃より引用

すめうじにおいて、ジュリエットは暗殺者として主人公の白花から心臓を摘出する。摘出後、約束を理由に白花をデートに誘い、以上のような演説を行う。注目するべきポイントは、ジュリエットが遥かに高い立ち位置でこの演説を行うことだ。読者に対して文脈を生成させるためには、ただ「美少女は無罪である」と誰かに言わせるだけではダメで、それが有効なセリフになるように状況設定を考える必要がある。例えば「カバディは実は面白いスポーツである」という文言を成立させるためには、「偶然カバディに参加した主人公が」「ルールのバランス性やプレイヤーである学校の先輩の情熱を目撃した」という状況設定が必要である。すめうじでは、「無法が認められているアンダーグラウンドにおいて」「強力な力を持つ暗殺者が自分の容姿を認めた」という状況設定だ。主人公である白花は、これについて特に何も思うことはないかもしれない。自己の外見に無頓着であるのが群体者の要件であるから、そのことは読者の視点からも想像できる。一方で、読者からすると主人公はジュリエットの擁護の範囲内にあるという認識を得る。このギャップがある読み方は逆に面白いと思ったりするが、ゲーマゲにそれらは見られない。

ゲーマゲのメインテーマは、アングラの人間の親密な関係を書くことではないからこの論点に関する言及がないことは十分に納得できる。とはいえ、美少女が傲慢でありつつ世界を滅ぼすというプロットは、not for meだったと言わざるを得ない。

  • 形式面では、ゲーマゲは美少女を無罪にする文脈に欠けている。

  • 思想面では、美少女が無罪なのは文脈に依存する。

4. 彼方は共感できるポイントがないのではないか(世界を滅ぼすことの正当性)

これまでに述べたこととやや重複することがあるが、私は彼方のキャラクター造形には全く感情移入できなかった。彼方はゲーマーで、美少女かつ最強だが、ネオリベラリストで負けた相手をカスほどとしか思っていない。ジュリエットに勝った後にめちゃくちゃ煽りまくるのは驚いた。別世界から来訪した存在であるのにもかかわらず、魔法世界編では、他の世界の宗教的な常識を一刀両断で煽りまくり、カスのなろう系みたいになっていたのも不愉快だった。

以上論点は個人的な感性の問題なのであえて外す。だが、すめうじでは白花のカスの人間性を細かいところで取り返していく構成があった一方、ゲーマゲにはなかったというポイントは注目できる。すめうじは、読者の視点から見ると徐々に蛆になっていく物語であった。皇白花は、性格や実質とともに最初からカスの蛆虫なのだが、白花の「相手のテンションによって受け答えがウェットに見えたり見えなかったりする」という特徴によって巧妙に隠されており、読者に彼女の群体性を後ろから追いかけていくという読書体験を与えることに成功している。序盤でヴァルタルと話している時の白花は常識人に見え、ジュリエットと話しているあたりでやや緊張感があるように見え、最後に戦いの中で本当に蛆の塊になる。

ゲーマゲでは、彼方は最初からカスのネオリベラリストである。最初普通の美少女と書いていて、後から発狂していくように見せることができればもう少し楽しめた感じはある。


  • 形式的には、彼方の人間性を後出しにして読者に偽装できた可能性はある(とはいえ、それはコンセプトに関わる問題なので要検討である)

  • 思想的には、繰り返し述べることになるが、理論面で正しいことを他の世界に押し付けることは不愉快ではないか

終わり

最後に、本稿が成立する要件、すなわち批評におけるメタゲームについて述べる。この文章は、ゲーマゲ作者の「留保」を踏まない態度なしに存在しなかった。普段私はこのような文章を書く人間ではない。ひとえに感情的な理由になるのを恥じながらも述べるのだが、端的に相手は「留保」しない態度でいるのに、こちらは発言にブレーキをかけるのはストレスである。それこそ彼方の能力の正体と言わざるを得ない。

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