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アウトドア研究会

1990年代半ばにとある病院に看護師として就職した。消化器外科病棟に配属となった。
1年目は、新しい環境のストレスで(まぁ、超怖い先輩の影響8割ですが)、最初の3か月で、体重が8㎏減った。
2年目、全てに慣れ、看護、医学の勉強も意欲的。月8回の夜勤を軽々こなし、休みの日は、川でカヌーか山登り。体力は、底なしであった。この頃、カヌーで、全国行脚していたこともあり、川原でのひとりキャンプやグループキャンプを頻回にしていた。

私が初めてキャンプをしたのは、1979年の夏だった。今と違い、町内会には、100人を越す子どもがいて、子ども会の行事も盛んであった。柴田さん、高見さんという近所のおじさん2人が、町内会の育成部の役員で、なかなか体験できない行事の企画をしてくれていた。冬山でのうさぎ追い。大晦日に町内の6神社を歩いて巡る鍛錬会。

そして、メインイベントは、夏休みの山梨県一之瀬高原でのキャンプだった。当時のテントは、三角テント。テントの張り方、ペグを打つ向き、雨水用の溝掘り。トイレは、穴を掘る。周辺の草を束ねて、屋根を作る。水道はなし。民家も利用している小川の水を使う。小学生ながら、リュックの重さは相当なもの。それでも、親から離れて友だちと過ごす数日間は、ワクワク感しかない。火の起こし方、薪の組み方、何十人分のカレーを作るのも、飯盒でご飯を炊く方法も、ここで覚えた。今のように便利なキャンプグッズがなくても、キャンプは、十分にできるのである。この体験は、私の人生において、大変に重要で大きな影響を与えたと思っている。

この体験から10年ほど経った頃の夏休み、大学の6人の仲間とキャンプをする事になった。道具は一切持っていないので、バンガローに泊まる計画だ。バーベキューで盛り上がり、私を上回る長渕剛ファンの海老原君が、剛モデルのギターを持参し、歌う。バンガローでの雑魚寝も、近くの銭湯で汗を流したのも、全てが「青春」だった。

病院で働くようになった頃、アウトドアブームが到来した。ノースフェイスやモンベルなどのアウトドアブランドからもオシャレな服なども出始めた。高価すぎてなかなか手はでなかった。この頃、病院の企画で、6月の尾瀬の燧ヶ岳登山と戦場ヶ原散策のバス旅があり、参加した。かなりの残雪、汗と雪でびしょ濡れになったが、心地よい汗が、子ども頃に培ったアウトドア魂を呼び起こした。尾瀬から帰ると、アウトドア用品店に行き、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、モンベルのゴアテックスの上下のレインウェアを購入。¥27000位だったかな。これ、本当に優れもの。今も手元にあって、使うことがあるのだ。もう、元はしっかりとったよな。

残雪の尾瀬

病棟勤務2年目、アウトドアに目覚めた私。
職場の仲間と、バーベキューを計画。三交代制で働く私たち、遠くへ行くのは難しかった。そこで、土曜日の昼に、病院から徒歩20分程の河原へ、炭と鉄板を持って行き、そこで肉を焼いて、やきそばを作って食べる。ただそれだけが楽しくて、日々の業務の疲れを忘れるひとときだった。これが「アウトドア研究会」の始まりだ。

第1回アウトドア研究会 バーベキュー

メンバーは、病棟のスタッフと外科医。
当時は、スマホもインターネットもない時代。計画は、本屋で購入したキャンプ場特集、アウトドア雑誌から情報を得ることから始まる。そして手書きのパンフレットを作成し、配布。まず、計画したのは、夏休みの1泊キャンプ。手術や外来診療もあるので、電車移動も可能なバンガローを選んだ。
休み組は、ビール片手に、おしゃべりしながら、食事の準備。仕事のこと、プライベートのこと、話は尽きない。途中から、仕事を終えた医師たちも合流。飲み会は、深夜まで続いた。

回を重ねる毎に、人数が増えてくる。夫や婚約者を連れてくる人、看護助手さんとその娘さん、どんどん輪が広がり家族ぐるみになっていく。
大寒波で、水道が凍結している筑波のバンガロー。春の秩父へトレッキング。丹沢キャンプ、御岳山登山、夏の大雨の本栖湖畔でのテント設営…。そして、数年が経つうちに、病院内での異動、結婚、退職など、それぞれの人生を歩む方向に。

あれから25年以上が経った。今も年賀状のやりとりをしているメンバーもいる。院長になった医師、退職して開業した医師。4人の子どもの母になった同僚…。

若かりし頃の研究員達

そして、今年、アウトドア研究会の同窓会を開こうと思っている。
オンラインでもいいかな。
それじゃ、インドア研究会になってしまう。
はやく、コロナよ落ち着いてくれ。



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