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変化/誤用/と、もう一つ

日本語教師を無理矢理二つのタイプに分けて戯画的に描写すると、例えばこんな感じに。

1)自らの脳内セオリー含む何らかの規範に照らして、重箱の隅をつつくように学習者の誤用を指摘する《言語警察》タイプ
2)すべての学習者の発話/作文を、言葉が変化していく過程で現れた表現だからとオールOKにしてしまう《言語アナキスト》タイプ

生身の日本語教師はカリカチュアではないので、実際にそれほど極端な先生にお会いしたことはないんですが。それでも、誤用訂正がキビシイ/ユルイのバラツキは意外と大きかったりする。
ついでに言えば、このバラツキというか揺らぎ幅は大きくなりつつあるように見える。また、上記の《言語警察》でも《言語アナキスト》でもなく、実情に即した《グレーゾーンの人》が_日本語教師に限らず_増えている気がする。グラデーション感度の極端に低い人が減りつつあるのだとすれば、もちろん良いことに違いない。
《それ》に基づき、言葉またはその用法を正しい/正しくないと裁定する規範_そのものなのか運用実態なのかは即断を避けたい_も揺らいでいる。
何か持って回った言い方なってもたけど早い話、言葉の変化過程が加速しているようだ。これに生成AIの実用化が進めば更に加速する。んやないかな。

私がコピーライター一年生だった前世紀の話。ある日、若年層をターゲットとするくだけたトーンのコピーを作っていると、先輩から注意を受けた。
「……なんやけど、ら抜き言葉はヤメとけな」
実情に合ってませんけどね。と思った記憶がある。日本語は、《話し言葉》と《書き言葉》の差異が比較的大きい言語だとされているようですが、なるほど。

たぶんこれも前世紀、某流通企業の研修現場で、次のようなやりとりを目撃したことがある。接客のロールプレイ中の一コマだった。
「はい。百円になります」
「いいえ、な・り・ま・せ・ん!」
講師の先生は、過労でお疲れ気味だったのか、不必要にイケズなニュアンスを込めて《コンビニ敬語》にNGを出されていた。
ところが、今朝視聴したNHKのローカル番組では、
「こちら、〇〇になります!」
と《コンビニ敬語》が連発され、字幕まで出ていた。もちろん、〇〇は工事中ではなかった。上記の講師なら間違いなく
「な・り・ま・せ・ん!」
と言うところだろう。

新聞などに見られる《書き言葉》は別としても、「食べれる」「寝れる」などの《ら抜き言葉_【註1】参照_》は、今やビジネスのほかある程度フォーマルな場面でも容認され、すっかり定着した感があるし、
「書かさせていただきました」などの《さ入れ言葉》は、政治家の発言中にも散見されるなど、敬語表現の一種として認知/運用されている感が強い。


と、いったあたり即ち《共時態》と《通時態》が交差するソシュール先生のいわゆるリンギスティッククロス_【註2】参照_で、日本語の現状が捉えられるかというとまったくそんな訳はないのであり。

1)日本語という言葉は、歴史的にどのような経緯を辿り、どのような姿をしていた/いるか、あるいはいるべきか。
2)それは、今この時、どのような意味を持ち、どのように運用されているか。

上記に加えて、《地域性》または《クラスタ》の概念、あるいは意味の《レイヤー》でも《アエティール》でも何でもそこはテキトーで構わないんだけど、とにかく第三の視座が必要とされている。
ついでに言うなら、それは日本語の現状認識のために限った話ではなく、ダイバーシティたらの理解と実践的改善を推し進める上でも欠かせないものだと思っている。

以下、余談註。

【註1】自然な変化/人為的な意見とか判断とかお約束


動詞の可能表現から《ら》が抜ける《ら抜き言葉》は、日本語が変化していく方向としてごく自然の変化であるとする意見は多い。
例えば、五段活用動詞《読む》には、対応する可能動詞《読める》があるが、五段活用でない動詞には対応する可能動詞がない。とされてきた。あった方が便利やのに……という訳で、五段活用以外の動詞にも、対応する可能動詞をつくっちゃいましょう。となると、《ら抜き言葉》が次々に生まれることとなる。このあたりの事情は、冷静に見ておくべきだろう。
第20回国語審議会(1993年)の答申では、《ら抜き言葉》が広く使われていることをいちおーは認めつつも、
『現時点では改まった場では使うべきではない』
とされた。

【註2】共時態/通時態/方言


表題を似非アカデミックに言い換えるなら、そんな感じか。もちろん、ここでの《方言》は《地域方言》に限らず、業界用語や仲間内でのみ通じる符牒を含む《社会方言》、更には家庭内ピジン/クレオール(次項参照)までひっくるめて指している。

【註3】家庭内ピジン(的)/クレオール(的)


もともと互いに違う言語を使う人たちが、物々交換や通商上の取引を行う際に自然と生み出される(?)人工言語が《ピジン》。それが後の世代に受け継がれ、共同体の共通言語になったものが《クレオール》。
通商目的に限らず、例えば国際結婚したカップル_及びその子ども(たち)_の家庭でも、オリジナルのピジン的な言語が使われているようだ。
ということで、更に範囲を拡げて類似の現象を見てみよう。同じ日本語の二つの地域方言が混じる場合。例えば、私が育った家庭では、《山陰方言イントネーションの関西弁》という、独特の《家庭内ピジン》的な言葉が話されていた。今でも私は、母との会話に際しては、そんな言葉を使う。他の場面では使わない。一方、私の弟はそれ以外の場面でも、そんな喋り方をしている。実は私は、ごく最近までその事実を知らんかったんやけど……。これ、信じられない話だ。そんなことやってしまえる感覚、まったくわからない。ほとんど会話が成立しないのも無理はない。弟の話す言葉は、そのままテキスト化すればごく普通の関西弁だが、音声を聴くとイントネーションが関西弁ではない。もしも、現在の弟一家の子どもたちがそんな喋り方をはじめたなら、《家庭内ピジン》的言語は《家庭内クレオール》的なるものへと変化するんだろうけど、それはなさそう。彼の家族は、そんなややこしい言葉を使おうとはしないようなので。

それにしても、漢語や、それ以外の外来語_通常はカタカナで表記される_を多く含む日本語が《クレオール》言語認定されてないのは何でだろう。






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