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大切な人に、してあげられること。

今日は
猫たちに起こされた。

まだ少し薄暗くて

太陽がこれから
昇ろうとしている。


今日も私は、私のためにnoteを書く。



私は
家族を大事にしてきた。

自分の親にしてもらいたかったことは
なるべく子供には
してあげたいと思っていたし

主人の意見を
できるだけ尊重したりもした。


けれど


今振り返ると


家族を大事にしてきた
「つもり」になっていた

…かもしれない。


自分では相手を
大切に思っていても

相手がどう感じているかは
わからない。


家族であっても
血が繋がっていても

すべてを以心伝心するのは
難しい。


ただ、なんとなく

「愛されているな」
「気にかけてくれているな」

と感じることはあったとしても
自分以外の誰かを
全て理解することはできない。



年末年始。

自立して
初めて帰ってきた息子。

小さい頃から
他の誰とも違っていて

私はそんな息子に
どう対処すればいいのかわからず
悩んでいた。



ずっと
手探り状態だった。

母親として
孤独になることもあったが
周囲の協力もあり


そんな息子もなんとか
成人を迎えた。



すると

突然大学を辞め
家を飛び出し
独り立ちしていった。


あまりにも突然過ぎて
親としては
最後までハラハラさせられた。


けれど

あんなに頭を悩ませられた
長い記憶とは逆に


なぜか

帰ってきた息子は
頼もしくなったように見えた。


息子は

私が好きそうな
紅茶やジャムをお土産に買ってきて

祖父や祖母の分もちゃんと
用意していた。


お年玉を親戚の子供たちに配り

そして

会社の人達にと
地元でまた
お土産を買っていた。




…はて…?



人は、本当に面白い。



息子は
ちゃんと大人になっている。



問題だ、心配だ
と思っていたのは、


ただ未熟である自分が

奇想天外な息子を
受け入れられられず

自分の器の小ささを
現しているだけだったのだ。


家族だからといって
全てを理解するのは
不可能だ。


いくら近い存在でも
相手は自分と違う。

経験も
性格も
時代も。


そして


踏み込める領域と
踏み込めない領域さえある。



結局

近い存在であっても
してあげれることは
あまりなかったように感じる。



最後に残るのは
相手を思う気持ちしかなかった。



離れていても、

近くにいても、

小さな時でも、

成長しても、

年老いても、


誰かにできることは


「相手を思いやること」
「理解しようとすること」
「信頼すること」

それだけなのかもしれない。



だけど
それよりも

大切な人を思うのなら


まずは
自分自身が元気で
幸せそうにしていることが

相手への
一番の奉仕だな、と思う。


それが
自分のためでありながら
相手のためにもなっている。



幸せそうな人は


相手に安心感というギフトを
すでに与えているのだ。





猫たちは
私を朝早く起こしておきながら

自分達は
もう眠ってしまっていた。

冬の朝日も
なかなか眩しい。


今日も


良い一日と
なりますように。




明日もnote、
書けたらいいなぁ。





温かなお気持ちに感謝します💗