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CAたちの第2章    Vol.2

画家 増田恵里子さん 日本航空/JALウェイズ                         在職期間:JAL 1988~1995 JALWAYS  2002~2010

恵里子さんと私はJALの同期 (当時631期入社なのですが、絵の才能については全く知りませんでした。そもそも画家になる夢はいつから抱いていたのですか。

恵里子:まだまだ画家なんて言えるほどではないですよ。なんとか人様に見てもらえるようになったかなと勇気を出して発表しています。私は7歳くらいからお絵かき教室に通っていました。小学校の卒業文集で将来の夢を書く欄があり、考えた末に『画家』と描いたのを覚えています。そのまま美大に進もうと勉強していたのですが、入試直前に親に反対され別の道に進みました。まさか絵を描いて暮らす人生が来るとは思いませんでした。

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卒業文集で書いた夢が叶うなんてすごい! 私、確か外国語の同時通訳と書きました。現在、大変素晴らしい履歴の方と組んで英語サバイバルトレーニングや翻訳のアレンジもしているからかすってはいるのかしら。。いずれにせよ幼いころの夢に辿り着いたのですね。CAはどんなきっかけでなろうと思ったのですか。

恵里子:短大に就職課というところがあって相談に行った時のこと。飛行機見ながら空港で働いてみたいと伝えると、地上職は人数取らないから難しいときっぱり。「身長あるし飛行機が好きならCA受けてみたら?」と勧められました。高所恐怖症の私には無理、とその時は乗り気ではなかったのだけど、翌日になったらなぜかすっかりその気になっていて。でも何をどう準備して良いのかわからず、とりあえず走ろう!と毎朝犬を連れて走ってみたり。犬にも助けられ、だんだん本気のスイッチが入っていきました。

最終試験にある踏み台昇降対策ですね。私もエアロビクスに通って持久力UPと立位体前屈がマイナスにならないように励みました。今から考えると信じられないくらいの体の硬さでした。あの頃のJALは入社すると乗務員の訓練に入る前に、S訓(スチュワーデス訓練生)と呼ばれ、地上研修として全国の空港や営業所に配属されて地上研修を行っておりました。どこで何をされていましたか。印象に残っていることは?

恵里子: 地上研修は羽田空港(KD)でしたが、同期と共に社会の厳しさを知ることになりました。毎日空港内を走り回り、先輩方に怒鳴られ、同期と励まし合いながら3ヶ月を送りました。今でも羽田に行くとちょっと緊張が走ります。

その話、思い出しました。配属先によって鍛えられ方の強度が違う!お姫様のようにチヤホヤ大切にされる部署もあれば、短期しかいないS訓には風当たりが強いところもあったと聞きます。私がいた伊丹空港の国際線は楽しかったですよ。最初怖かった人も接し方ひとつでだんだん仲良くなって、寮に泊まりにきてくれて飲み明かしたり、お化粧教わったり、御馳走してくれたり。あの頃はまだ基本給だけだったので、ご馳走してくれる先輩がまぶしかった~。地上職の方がご自宅に招いてお夕食をふるまってくださったりもしました。さて、チェックアウト(地上研修の後、乗員訓練を経てCAとして乗務すること)後も、昔はいろいろな「しきたり」というか掟がありましたよね。配属先のグループ全員にお手紙をしたためてメールボックスに入れるとか。

恵里子:ありましたね。フライト前は新人CAが中心になって緊急時の対応を確認したり、滞在先ではホテルチェックイン時にクルー全員の名前と部屋番号を表にして配ったり。今はもうないでしょうけれど。

フライト前後、クルーバスに乗り込む際に人数と全員の荷物が搭載されているかをチェックしましたね。オッケーでーーーーーーーーす。と、言ってバスの前方に座る。大御所客室乗務員はバスの後ろに、運航乗務員は前のシートに。なんとも懐かしい光景です。6months check (乗務開始半年後にある新人チェック)まではいろいろな掟に縛られていましたが、今となっては右も左もわからない状態でひたすら頑張っていた時期が本当に楽しかったなぁと目を細める。。。。

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恵里子:そう、わけわからず教えられたことをやっていたような。そして先輩にもお客様にも「申し訳ございません」ばかり。1年くらいそんなだったかも。

退職された理由は?

恵里子:アシスタントパーサーになってから精神的に疲れてしまったのかな。毎回同じことの繰り返しにも飽きてきてしまいました。そしてフライト中に倒れて他のクルーに迷惑をかけることが何度かあり、そろそろ別なことをやろうかなと感じるようになりました。それでも7年後再びCAの仕事をすることになって。その時は契約社員だったし、肩の力も抜けて伸び伸びと楽しくできました。

そんなに追い詰められていたなんて。毎度同じことの繰り返しに飽きてくるというのはとてもわかります。人間贅沢なもので、最初のころは空港を歩き飛行機が見えるだけでワクワクしていたのに、だんだんそれが苦痛になり空港が一時嫌いでした。結婚する気になったものそのくらいのときでした(笑)。JALウェイズにもいらしたのね。その時のお話しを少し聞かせてください。

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恵里子:JAL退職後しばらく海外で仕事をしていて、そろそろ帰国しようかなという時、JALWAYSのことを同期から聞き再びCAとして働くことにしました。同乗クルーの約7割はタイ人。私自身は7年のブランクがあり、彼女たち独自の仕事の仕方もあったので、復職直後はなかなかペースに乗れなかった覚えがあります。行き先は主にホノルル、バンコクなので、それは魅力でしたね。1ヶ月に2〜3本飛びながら別の仕事もしていたので、この時はフライトが良い息抜きになっていました。

今の主な活動と今後の展望について教えてください。

恵里子:絵は無理せず、気が向いた時に描くようにしています。主に油彩画ですが、日本画も絵具の発色が好きで時々描いています。小さい絵には額縁も作ります。自分の作品に服を着せるような気持ちで、今は絵を描くより額縁作りの方が楽しくなってきました。
今後はのんびり作品をためて、オリンピックと同じ4年おきに個展を開こうと考えています。次回は2024年のパリ五輪の年の予定。

騙し絵のような手法が印象的ですね。

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恵里子:子供の頃教わっていた絵描きさんがシュールな絵を描く人でした。またダリやマグリットが好きなのでどうしても影響を受けてしまうのでしょう。私は鎌倉で育ったので小さい頃から空と海が身近にあり、CA時代にはいつも雲の上から空を見て感動していました。都内に住むようになってから目に入る景色がガラッと変わり、広い空と海に飢えながら暮らしています。そんな中、頭の中にある景色に妄想みたいなものが加わってシュールな絵になるのだと思います。あとは『もしも○○が○○だったら』みたいに、クスッと笑えるような、コントを作る気持ちで描くこともあるので不思議な世界になるのかな。

私はキリンの絵に一目ぼれして購入!

恵里子:ありがとうございます!起美さんに気に入っていただけてすごく嬉しいです!あの作品は2012年から4年間、武蔵野美術大学の通信課程で学んでいた時にリトグラフの授業で制作したものです。キリン好きなの。


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思い返して、今の人生にCREWでの合計15年間はどのように影響していますか。

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恵里子:退職してから、香港でアパレルの仕事、帰国後JalwaysでCA、同時に鎌倉でハワイアン雑貨店経営とイベントでの接客の仕事、と色々やってきました。これらの仕事は同期、機内や滞在先で知り合った人などとの繋がりから始まり、様々なことを経験できたように思います。また絵に対しての影響でいうと、飛行機から見えた空だけではなく、世界中の景色や色、滞在先で出会った作品や建築など、その時はボーッと眺めていたのでしょうけれど、それらが自分の感覚の中に溶け込んでいるような気がします。あとは晩ごはんを作る時かな。7時に出そうと思うときっちり7時に出さないと気が済まず、しっかり逆算して支度を始めます。ギャレーワークの感覚がいまだに抜けないようです。起美さんはそういうことありませんか?

あるある。逆算は得意とするところかも。そうか、その能力はCAで鍛えられたものだったのですね。私はてっきり天賦の才かと信じていました。着陸というゴールの前にすべてをクリアにして、一丁上がりの爽快感。JALを離れてから、いろいろな場面で、逆算でなく手前からしか物事を進めることができない人が案外多くて驚きました。訓練の賜物ですね。パリ五輪から逆算して、良い作品がたくさん生まれるってことかな。楽しみにしております。


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