しきから聞いた話 175 器物たちの蔵
「器物たちの蔵」
明け方、枕辺に見知らぬ女が立った。
目覚めていたから、いわゆる夢枕ではない。ようやく東の空がほのかに明けたくらいで、部屋は暗い。もしや鬼のような面構えなら見たくないな、とじっとしていると、あちらも立ったままで動かない。しばらくそうしていて、なんだか我慢くらべも馬鹿らしくなったので、床から起きると、いきなり女と目が合った。
「ごめんくださいませ」
いまさらな挨拶だ。
「お頼みしたいことが、ございまして」
口調は丁寧だし、物腰は柔らかで落ち着いている。寝込みを襲われたのではないし、怒るのは大人げないなと思い、布団の上にあぐらをかいた。
用件を聞こうか。
「ありがとうございます。実は、本日、あなたさまがお訪ねになるところに、わたくしの一部が捕られておりまして」
わたくしの一部。それは
「はい、これを。お見苦しきもの、失礼いたします」
女はすっと寄って来て、ひざをかがめ、着物の左そでをわずかにたくし上げた。
ひじの先、腕のなかばまでは見えるが、その先が徐々に消えている。手首の先はもう、まるで無い。
「掛け軸に仕立てられております。あなたさまが引き取って下されば、それだけで我が身に戻ります」
女は、まくった袖を直し、そのまま頭を下げ、淡雪のように消えていった。
外は、朝焼けに明るくなり始めていた。
今日、訪ねるところと言っていた。
少しばかり気が重い。
初めての家。人の紹介で、古い蔵の風入れに呼ばれていた。昔から続く素封家で、あまり良い話は聞かない。どうして呼ばれたのかと、少し不思議に思っていたのだが、あの女の故かもしれない。
朝食をすませて、早々に出かけて行くと、目指す家の前にはもう、今回の紹介のつてとなった知人が立っていた。
「おはようございます。よろしくお願い致します」
後について長屋門を通って入ると、玄関先では主人らしき男が立って、待っていた様子だった。
「いやぁ、ようこそ。さぁさ、さっそくですけれど、どうぞ、あちらになります」
後について歩きながら話しを聞いていると、風入れというのは建前のようなもので、実は、家のものを見せびらかしたいらしい。珍しい、価値がある、素晴らしい、と褒められるのが嬉しいようで、知人はそれがよくわかっているから、うまく調子を合わせている。
それでも、古い蔵が開け放たれ、時代を経てきたもの達が、静かにつかのま息を吹き返すのは、よいものだ。主人の人柄はともかく、蔵の中のもの達は、ほとんどが由緒の良いものと思われた。
「幽霊やら妖怪やらがわかる人が来てくれるっていうんで、楽しみにしてたんです」
主人は、どうにも品のよろしくない笑みを浮かべて、こちらを見る。
「うちのものはきっと、色々あると思いますよ。でね、そういえば、まさしくそれだっていうのを、思い出しましてね」
主人は蔵の中へ入って行き、奥の開け放した窓に近付いて、窓際にかけた一幅の軸を指さした。
「ほら、これ。死んだじいさんの話だと、江戸のはじめの頃、うちでよく面倒を見ていた山伏だかが、女の幽霊を退治した証拠だっていうんです」
主人が指さした掛け軸には、ざらりとした質感の和紙に、書も絵もなくただ、薄墨で押された左手の手形が、ぽつんと浮かぶように見えた。大人の手ではあろうが、小さく、指が細い。
主人は、どうです凄いでしょう、とでも言いたげに目を見開き、鼻息を荒くしている。
これは。
「これは、あまり良くないですね」
突然、割って入るように、知人が口を開いた。
「これは、手元に置かれてよいことは無いと思いますよ。今まで、ずいぶん長いこと、開かずにおいたものではないですか。開かなかったから、良かったんです」
どうしたことかと思ったが、訳はすぐに知れた。
蔵の中の古いものが、知人の口を使っている。
しかし主人はそうしたことに慣れていないようで、先程までの勢いはどこへやら、可笑しいくらいに怖気づいている。
「え。ほ、ほんとに? これが、ですか?」
主人は上目遣いにちらちらと、掛け軸と、知人と、こちらとを見る。
長引かせると、憑かれた知人の身体へは負担になるだろう。
ご供養を望まれるなら、お預かりしましょうか、と水を向けると
「そうですか、そうした方がいいですか、それじゃあ」
とんとん拍子に話が進む。
これは随分と、蔵のもの達に嫌われた主人だ。
怖気づいたのも、主人の本心ではないだろう。
器物達の魂魄が、主人を取り囲んで締め上げている。
「女の幽霊を退治だなど、とんでもない」
知人が吐き捨てるように言うと、その呼気の勢いで、口からぽんと白い煙のようなものが出た。
「若くして亡くなった、可哀想なお女中の魂を、だまして封じ込めたくせに。えせ山伏め」
煙はそう喋ってから、奥の桐箱の中へ、すうっと吸い込まれていった。おおかた、時代物の、物識りな茶碗か何かだろう。
主人は金縛りになったように、立ったまま身動きせず、ただぱちぱちとまばたきをしている。
煙の抜けた知人は、窓際へ進んで掛け軸をはずし、くるくると巻いてこちらへ差し出した。
「それじゃ、これはよろしくお願い致します。いやあ、それにしても、本当に良い品ばかりですなぁ。ご主人、あちらの箱は何ですか」
ふ、と主人の金縛りが解けた。
面白い蔵だ。
この主人の扱いに慣れてしまえば、もっと面白いものが見られるかもしれない。
それにしても、この知人も、これまで深い付き合いはなかったが、案外、面白い人物なのかもしれないな、と思った。
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