しきから聞いた話 142 狐火
「狐火」
その集落は古くから、稲荷山と呼ばれる小さな山の麓にあった。
駅から遠く、バス便も少なく、決して便の良いところではないが、30軒ほどの家はどれも絶えることなく、若い夫婦や子供も、少なからず生活していた。
稲荷山の中腹には稲荷社があり、集落の人々に大事にされていた。特に、ご眷属の白狐は親しみをもって「おしろさま」と呼ばれ、家々には稲荷社の札と、ひと回り小さな白狐札というものが、並べて祀られていた。
数年前まで稲荷社の宮司を務めていたご老人が、秋口からずっと臥せっているとは聞いていた。しかし、いよいよだろうと連絡が来て、夕刻に訪れることになった。
そろそろ陽が落ちて暮れてゆく中、広い庭が見渡せる縁側のカーテンが開けられて、外からでも座敷の様子をうかがうことができた。蜜柑色のあかりがともされ、中央に布団が敷かれている。
ご老人の命脈が、尽きようとしている。
枕元には僧侶が座して、低い、よく響く声で経を読んでいる。中へ入るのは遠慮して、庭先で待つことにした。
ご老人は、集落の人々に慕われていた。
人のみならず、集落にいるもの、あるもの、皆に慕われていた。惜しむ心は当然として、しかしご高齢であり、病の床でも穏やかに過ごされていたと聞く。皆がもう、引き留めようとは思わないだろう。ただ、冥土の道が安らけくあれと祈るばかりだ。
座敷の中には僧侶のほかに、10名ほどの親族がいた。畳が見えないくらいに座布団が敷きつめられているが、ご老人の横たわる布団と縁側の間だけは、通り道をつくるように、何も置かれていない。そして、親族達は、たくさんに敷かれた座布団に、ぽつりぽつりと間隔を空けて座っている。
空いた座布団にも、そろそろ来る頃だ。
僧侶が小鈴を鳴らし、澄んだ音が夕闇に染み渡ってゆく。
縁側に、ぼうっと火が現れた。
僧侶の前に置かれた燭台の炎より、ふた回りほど大きな火だ。
青みがかった、静かな火。少し揺れながら座敷の中へと入り、ふわりと白いものに変化した。
雪のように白い、狐。
行儀良く座布団の上に座り、すっくと伸ばした前足を、ふさふさとした尾がくるりと包む。
凛とした切れ長の目が、まっすぐにご老人を見つめている。
しんと張りつめた視線。いやしかし、その眼には慕わしさが込められているのだ。
ふたつ、みっつ、
次々と火が現れ、座敷に入っていく。
どれも、白い狐の姿に変化する。
いつの間にか、陽はとっぷりと暮れていた。
読経を終えた僧侶が、小鈴を鳴らす。
長く、澄んだ余韻が、染み渡る。
縁側に、火がともる。
ひとつ、ふたつ、みっつ、
その火は座敷へは入って行かず、外へ、外へと増えていく。
稲荷山へ向かって、火がともって行く。
音もなく、静かに。二十、三十、
座敷の中の狐が、動き出す。稲荷山へ続く火に沿って、ゆっくり、ゆっくり。
そうしてご老人は、狐火に伴われて、稲荷山へと上がって往かれた。
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