しきから聞いた話 189 ほとけの後ろ顔
「ほとけの後ろ顔」
年に数回、手伝いに行く寺の境内に、六尺ほどの高さの石仏が祀られていた。
蓮華の台座を入れて六尺だから、仏像そのものは、小柄な成人女性くらい。頬のふっくらとした優しいお顔立ちの、十一面観音だった。
先代住職がお元気だった頃から懇意にしてもらっており、法要だけでなく、色々な行事の手伝いに呼ばれる。先代はとにかく社会奉仕活動に熱心で、特に力を入れていたのが、孤児院の運営だった。
当代住職はその孤児院で育ち、先代の養子となった。先代を心から慕い、尊敬しており、今は児童養護と看板の替わった施設を、先代にも増して熱心に、大切に運営していた。
まだ残暑の厳しい九月なかば、観月の音楽会をするから遊びに来ないかと、連絡があった。誘いは楽しげだが、実は手伝いをさせる気だろう。もちろん悪い気はしないので、ふたつ返事で出かけることにした。
澄んだ瑠璃の光を沈めた、濃紺の空。
薄く流れる秋の雲が、赤みを帯びた月の光を受けて、冴える。
開け放った本堂での音楽会は、住職の友人達による弦楽四重奏で、クラシックの名曲から始まって、演歌やアニメソングも演奏された。地域の人々20数名、そして施設の子供達も、楽しそうに聴き入っている。
茶の接待、菓子の用意などの手伝いもひと区切りついて、耳に心地良い弦楽の音を楽しみながらも、外でひと息ついていると、月明かりに照らされた十一面観音の前に、蒼い影が佇んでいるのが目に入った。
影、と思ったが、生身のひとだ。
若い男。
砂利を踏む音に気付いて、こちらを見た。
「あ、」
知った顔。
「こんばんは。オヤジにまた、呼ばれちゃったんですか」
陽一という。生まれてすぐ、施設の玄関先に深夜、置き去りにされた。10代のなかばには荒れたこともあったが、それでも3回ほど転職をして落ち着き、今は結婚をして子供にも恵まれた。
月明かりの下の笑顔は、逞しく、優しげだ。
手伝いに来たのかい、と問うと、さらに、にこりと笑う。
「ええ。昔は俺、こういうイベントみたいなの、嫌いだったんですけどね。なにチャラチャラ遊んでんだよ、そんな余裕ねぇだろ、なんて思ってたかなぁ」
へへへ、と笑う。
今は?
「なんかやっぱり、変わったんですかね。ていうか、オヤジが、ね」
陽一がオヤジと呼ぶのは、当代住職のことだ。陽一は十一面観音を見つめながら、問わず語りを始めた。
高校生のとき、アルバイト先の店長に「親のいない奴は何をするかわからない」と言われ、殴ってしまった。警察沙汰になったが住職が手を尽くし、収めてくれた。そのとき、夜にこの十一面観音の前で、こう言われた。
「陽一。おまえの名前は師匠(先代)が、太陽の下でひとつでいいから一所懸命になれるものを見つけて生きられるようにと、願いを込めてつけたものだ。それは知っているな。でも人間は、いつもいつも、太陽の下で頑張れるわけじゃない。まして太陽は、その光が強ければ強いほど、眩しくて、見上げていられなくなるものだ。だから、無理に太陽を見なくてもいいんだ。むしろ、うまくいかないときは太陽よりも、今夜みたいな月を見ていればいい。見上げなくても、目の高さで、見ていればいいんだ。だってな、月は、太陽の光を受けて、あんなに輝いているんだってよ」
陽一はそこまでを話すと少し黙り、十一面観音の背後へと回っていった。
「この仏さん、じいちゃん先生が建てたらしいんですけど、オヤジがね、そのとき教えてくれたんです」
陽一は、十一面観音の後頭部を、じっと見ていた。
観音の、十一の顔のひとつ。そして、最も奇怪な表情の顔。
暴悪大笑面と呼ばれる。
大きく口を開け、舌を出し、まるで見る者をあざ笑っているような顔。
「じいちゃん先生は、この顔が後ろにあるからこそ、この仏さんを大事に想ってた、っていうんですよね」
陽一がじいちゃん先生と呼ぶのは、先代住職だ。
先代住職が十一面観音を大事にしていた話は、当代から聞いたことがある。
仏にも、どろどろとした心がある。それが無ければ、どうしてひとの悪心を理解できようか。理解が無ければ寄り添えはしまい。清らかなだけ、明るいだけでは、ひとの心を救うことなど、できないのではないか。
「月の光の下で、この仏さんの後ろの顔を見てると、あぁ、俺でもいいんだなって、思える気がするんです」
陽一は少し唇をとがらせて、泣きそうな目をして微笑んだ。
「俺でもいいんだなって思えると、周りもいろいろ、いいんだなって思えるっていうか」
それきり、陽一は黙り込んだ。
本堂からはまだ、弦楽四重奏の心地良い響きが聞こえてくる。
陽一は今宵、家族と共に来たのだろうか。
そういえば、陽一の子は、美月という名の女の子だった。
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