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しきから聞いた話 186 ふかふか虫

「ふかふか虫」


 4日間続いた雨が上がったので、昼過ぎから散歩に出た。

 時期はたしかに梅雨だが、雨の降り方は熱帯のような数日だった。ざっと降ってしばらく上がり、また雲が厚く流れ来て、ざっと降る。しとしとと柔らかく浸みてくるようなのが梅雨だと思っている身には、雨音の激しさも川の流れの強さも、ぴりぴりとした刺激になって、何やら不安を感じさせられる。
 数日ぶりのからっとした青空に、胸の中にまで心地良い風が吹き渡るようだ。

 遠景に田んぼの広がる住宅地を歩くと、多くの家が、たくさんの洗濯物を干している。穏やかな風に揺れる衣類と、遠い田んぼの若い緑色が、何というのでもなく、ただ嬉しい心持ちにさせてくれる。

 小道の角を曲がって、2軒目の前にさしかかったとき、ふわふわと漂うものの気配がした。
 何とはなしに、足が止まる。
 その家は、真新しくはないが、いまふうの造りの二階屋で、敷地の右端に門扉があり、左側は小さな庭になっていた。庭の、建物に寄せたところに、少し低めの物干し竿が渡され、敷布団と掛け布団が干されている。
 ふわふわしたものはどうやら、その辺りから漂って来ているようだ。

 庭と道を隔てるフェンスまで近付いていくと、それが近くにやって来た。
 ほぼ透明。大きさは大人のこぶしくらい。ほんのわずかな乳白色を帯びた、密度の低い綿あめのようなもの。手を触れてみると、ほぼ、実体は無く、けれどやはり綿あめの作り始めのような、薄く淡い感触か。

 こんなものは見たことが無い。
 何だろうと思っていたら、話しかけてきた。

「きもちよかろ」

 その声も、なんだかふわふわした耳ざわりだ。

「きょうは ええてんきやなぁ」

 まったくだ。良い天気で気持ちもいい。ところでおまえは、この家のものかね、と尋ねると、ふわふわはわずかに伸び縮みするような動きをして見せた。

「そうとも、この家のもの。あるじが、そこにおるよ」

 あるじが、の言葉に、目が導かれた。
 干された布団の向こう、家の大きな掃き出し窓の前に、3、4歳の女児と、母親がいた。
 会話が耳に届く。

「ふかふかむし いるよ いっぱい いるよ」
「そうね、ふかふか虫、いるのね」

 こちらに背を向けていた女児が、振り向く。

「ふかふかむしーぃ」

 女児は嬉しそうな声を上げ、干してある布団に、ぽすっと顔をうずめた。
 女児は、大きな分厚いレンズの眼鏡をかけていた。
 弱視なのだろう。動きにわずかなぎこちなさがあり、横に立つ母親は、女児が動いた瞬間、ぴりっと緊張した。
 それでも。

「ひぃちゃん、お顔」
「へーき」
「違うよ、眼鏡。また壊しちゃイヤよ」
「だいじょぶ」

 女児が顔をうずめた布団からは、あの、薄い綿あめのようなふわふわしたものが、ほわり、ほわり、と次々に漂い出ていた。

「ふかふかむしぃー」

 さきほど「あるじがおる」と言ったふわふわが、近くに漂って来て教えてくれた。

「あるじは目が効かん。だが、こころにはたいそう深いちからがある。よいもの、ぬくいもの、やわらかいもの、やさしいもの。それが「ある」のを知るこころや。ゆえにわしらを、生むこころや」

 ふわふわは、嬉しそうに伸び縮みをしながら、女児の周りを漂い始めた。
 女児はときどき布団から顔を上げ、すりすりと気持ち良さげにほおずりをする。そうするとまた、新たなふわふわが生まれてくる。

 女児の様子を横目で見ながら、母親は布団の向こうに干した洗濯物を取り込んでいく。この母親もたいしたものだ。よくぞこれほど、素直な心に育ててきたと思う。

「ひなた、もう、お布団も取り込むよ」

 母親が、女児の背中をさすりながら、そう言った。

 ひなた。そうか、それが女児の名か。
 なるほどふさわしい。お日さまの娘というわけだ。


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