見出し画像

全部誰かのせいにしても、幸せになれるわけではない。

怒りとは酸のようなものだ。
それを入れている器の方が傷んでしまう。

と、先日とあるYouTube動画で聞いた。
もとはガンジーの言葉だったか。

つまり、怒りを抱くことにより、自分自身の精神(場合によっては肉体)がやられてしまうわけである。

多分、それは怒りだけではない。
妬み、そねみ、僻み、そういう感情も含まれるのだろう。
ひょっとしたら悲しみや落ち込みなどネガティブな感情全般に当てはまるかもしれない。

怒りなどの感情には対象があることが多い。
人だったり、ものだったり、会社や世の中だったり。
人だったら自分に対してと他人に対してがあったり。
タイトルの「誰か」とはそういった事物のことだ。多分。

怒りなどの感情は、他人や自分や社会が「けしからん」ことをしたから突如湧いてくる、というわけではない。
何らかの原因で本人の精神が不安定になり、そこに「けしからん」ことが出現した、自分の目に入ったことにより着火するわけである。
「けしからん」何某かはきっかけにすぎず、怒りの根本的な原因ではない。

怒りの対象が、謝罪したり撤回したり、行動を改めたとしても、なんの解決にもならないのである。
また次の「けしからん」ことに遭遇したら、同じようなことになり、延々と繰り返されるだけだ。

そう考えると、ガンジーの「酸」という表現は的確でわかりやすい。
自分という器に溜まった酸を取り除かない限り、同じことが繰り返され、周りから人がいなくなり、ますます酸に依存し、器が傷み、人格が溶け、負の連鎖に入っていく。

私は、怒りを対象にぶつけることの害よりも、怒りが自分自身を蝕んでいく害の方が重大だと感じる。
前々から「自分を大事にする」ことを始めている私から見ると、怒りという酸を自分の中に抱き続けることは、自分を蔑ろにすることに他ならないからだ。

怒りという酸を自分の器に溜めないようにする方法は、まだ私もうまく確立できていない。
ただ、その解決策も、総じて「自分を大事にする」ことに繋がっていくような気がする。

まあ要するに、どうやったら精神を不安定にさせないか、というお話。

好きなことをする。
好きなものを食べる。
好きな場所に行く。

これをしたら生き返るわー! という方法を持ち、それへの投資を惜しまない。
金銭的にも、時間的にも。

自分を生き返らせるのは自分であり、自分の機嫌を取るのは自分である。
それが自分の人生を生きるということであり、自分の人生に責任を持つということなのだろう。

……まあでも、そんな修行僧みたいなこと、なかなかできないだろう。
私だってなかなかできない。

だけど、完璧でなくてもいい。少しずつでいい。
「けしからん」と怒りをぶつけるのをやめるのは。
自分の器に酸を溜めないようにするのは。
「誰か」に依存するのをやめるのは。
自分を大事にし、ケアするのは。

少しずつでいい。

この記事が参加している募集

習慣にしていること

あなたの気持ちが、巡り巡ってやがてあなたの元へと還りますように。