児童養護施設職員が、仕事を超える時の話

今回は、児童養護施設職員の素晴らしい働きを、少し突っ込んで話していきたいと思います。


児童養護施設で働いていると、幼児さんからずっと児童養護施設で育った子に出逢います。同じように、その子とずっと一緒に施設で働いてきた職員さんにも出逢います。


今日は、そのことについて話そうと思います。

職員の基本的な「正しい」スタンスと、子どもとの関係性


別のブログでも何度も言っていることですが、児童養護施設に入所してくる子どもたちは、ほぼなんらかの虐待を受けていると言っても過言ではありません。


なので、私たち児童養護施設職員は、研修を受けると、虐待を受けた子どもたちのトラウマにフォーカスした支援、いわゆるトラウマインフォームドケアと呼ばれるケアの方法を学びます。


トラウマインフォームドケアはまだ言葉として市民権を得ていない印象ですので言われてピンとくる職員ばかりではないでしょうが、研修で学ぶことのほとんどが、このトラウマインフォームドケアと言ってもいいでしょう。すなわち、子どもが虐待を受けた影響に苦しんでいて、プロの養育者として関わる私たち児童養護施設職員は、子どもの行動の背景にある苦しさや虐待の影響を鑑みて子どもと接する必要があるということです。

私も、この手の研修を受けてきましたし、虐待の影響は知識としてたくさん学んでいます。

児童養護施設に勤務していると、とりわけ一般的には理解し難い行動を取る子どもたちはたくさんいます。いきなり殴りかかってきたり、楽しく遊んでいたと思っていたのに数秒後に取っ組み合いになっていたり、良かれと思って褒めているのに急に怒り出したり、例を挙げればキリがありません。


そんな中、私は「職員」として子どもたちと接することが命題だと思っているので、都度子どもたちの虐待の背景に思いを馳せ、トラウマが与える影響を考え、自身が己の価値観で子どもと対応していないかをチェックし、日々業務に励んでいます。


しかし、同じ施設職員でも、子どもをがっつりと叱りつけ、価値観で物を言い、自分の思いをガンガン子どもに押し付けている職員を時たま目にします。


私はその都度、「そういう職員がいるから児童養護施設職員の社会的地位が上がらないんだよ。」とため息をついていました。今もついてます。


残念ながら、別のブログでもたくさん書いていますが、児童養護施設職員の中には、圧倒的にダメな職員もいます。


しかし、最近になって気付いたことがあります。


私からしたら全然ダメ対応なのに、どうやら子どもたちはその職員のことを信頼している場合が多々あることです。


怒鳴っているし言い方もキツイし、なんなら不機嫌を隠そうともしないのに、子どもから絶大な信頼を得ている。最初はその職員の操作性かとも疑いましたが、そうでもなさそうです。


私は、基本的には正しい職員スタンスはあると思っています。それは、怒らず、価値観を押し付けず、気分によって態度を変えず、子どもを褒め、虐待の背景に思いを馳せ、そして未来を信じることです。

ただ、怒って、価値観を押し付け、不機嫌を隠さず、子どもと喧嘩し、ダメなことをダメと言い切る職員の存在価値も、同時にあると言わざるを得ない状況になってきています。


そのことを、少し考えていきます。

簡単な事例検討

児童養護施設で暮らすAくんは11歳の小学5年生です。軽度の知的障害があり、特別支援学級に通っています。

Aくんは衝動性が高く、何につけても我慢することができません。おやつは出された分を一気に食べ、冷蔵庫に入っている誰のものがわからないお菓子なども見つけてしまうと食べてしまいます。誰と遊んでいても、ゲームで負けると不機嫌になり、勝った相手を殴ってしまいます。

そんな中、Aくんが同じ寮のBくんと遊ぶ約束をしました。BくんはAくんと同い年で、利発な子です。社会性が高く、どのような行動を取ると大人が叱るのか理解しています。なので、問題行動はほとんどしません。Aくんも、穏やかなBくんと遊ぶのを好んでいます。

2人が一緒に遊び始めて数分で、ゲームに負けたことでAくんがBくんの肩

を拳で殴りました。

その現場を見た2人の職員は、全く違う対応をしました。


C職員はその場でAくんを一喝し、2人に離れるように指示しました。もちろんBくんは従いますが、Aくんは動けません。Bくんが離れていくのを見て更に怒りを爆発させます。C職員は怒り狂って暴れるAくんを放っておき、Aくんが落ち着くのを待ってから話をします。暴力を振るってはいけないと、端的に伝えます。


D職員は、その場でまずBくんを守ります。AとBの間に入りこれ以上Aくんを加害者に、Bくんを被害者にさせないようにします。そしてBくんに対して、「嫌だったね。その気持ちは悪くないよ。でも暴力はいけないよ。暴力を振るいたくなるぐらい嫌だったんだね。」と語りかけます。


2人の対応の違いは、職員と子どもの関係性によって、黒にも白にもなると思います。


D職員の対応は、模範解答に近いと思います。誰がやっても同じことができますし、受け取る子どもも、大きく崩れることはないでしょう。

一方、C職員の対応は、やや一方的でAくんの気持ちに寄り添っていないように感じます。また、振り返りも短く、気持ちの聞き取りは重要視していません。


しかし、C職員とAくんが、長い時間を過ごしてきて信頼関係を構築している上での声かけだと、話は変わります。


Aくんが、どんなに叱られてもC職員が自分のことを大切にしていることを知ってる場合、C職員は多少自分の思った通りにAくんと接してもいいのです。なぜなら、攻撃にはならないからです。

特にAくんと信頼関係がない職員の場合、頭ごなしにAくんを叱ることに効果は期待できません。「俺のことなんか何も知らないくせに。」となるからです。

信頼関係が土台にある親密な関係が作り出す魔法の話

この、長い間培った信頼関係を土台にしたコミュニケーションは、他者が理解し得ないある種の魔法があるのです。


すなわち、子どもから見た、「あの人だったら言われても受け止める気持ちになる。」という次元です。


ここまで信頼関係を構築するためには、通り一辺倒の技術や知識はあまり役に立ちません。

どんなに子どもが暴れても、暴力を振るっても、問題を起こしても、本気で叱りつけ、本気で抱きしめ、本気で子どもの話を聞いて、それを数年単位でやっていくことで生まれる関係性です。


もちろん、虐待の知識に基づいて子どもを分析し、必要だと思う対応をすることもとても大切です。それは別のブログで紹介していますので、そちらを参照していただけたら嬉しいです。


それとは別に、子どもを愛しているからこそ感情をあらわにし、時に不適切な言葉で怒鳴りつけ、子どもと取っ組み合いになることも辞さない職員は一定数います。

また、もちろん学習はするけれど、それだけでは超えられない子どもと職員の壁があるのも事実です。

どんな時でも感情的にならずに、いつも同じように子どもの話を聞く職員を、子どもは怖がります。

それより、怒ったり笑ったり悲しんだりする職員を子どもは好みます。


大事なのは、職員が自分自身のために感情を出しているのではなく、子どもを思うが故に感情が出てしまっているか、です。


そういう職員なら、子どもはついてきます。


しかし、残念ながら今の社会的養護の常識は、職員が感情を表に出すことを肯定的には語りません。


私自身も、勤務中はあまり感情を表に出さないようにしています。そうしなければ怒鳴りっぱなしになってしまいます。


ですが、もし感情的に怒鳴る職員が、その子どもと長い時間をかけて信頼関係を構築してきたのであれば、私は見守ることにしています。それはそれで、ありなのです。

この領域に名前をつけたい


私はこのことをずっと考えてきました。


職員が、プロの養育者から、その子の人生の一部に入り込むイチ知人として、職員の枠を超える瞬間のことを、なんと呼べばいいのだろうかと。


この関係性は、語るのがとても難しい関係性です。


以前、本当にダメな職員がいて、その職員に、「子どもがあなたを信頼していると、どうして言えるのか。」と質問したことがあります。そのダメ職員は、「私の言うことを聞くからですよ。」と言いました。

信頼関係があっても、子どもは言うことを聞きません。むしりここぞとばかりにわがままを言ったり、自分の感情を素直に表出したりします。

本当に信頼している子は、そうしてもその職員が自分を見捨てないとわかっているんです。言うことを聞くから信頼している訳ではありません。言うことを聞けない自分も含めて、本当の自分を愛してくれていると知っているのが信頼です。


このことを理解せぬまま、子どもに言いたいこと言っている職員はダメです。

勝手に信頼関係が構築されていると思って、知らず知らずのうちに子どもを支配します。だから説明が難しいのです。


言いたいことを言う、感情を表に出すということを頭ごなしに否定できません。そういう人間らしい姿が、子どもにとって大事なこともあるからです。


しかしそれは、あくまで子どもを愛していることが前提で許容できること。

それが客観と主観でズレるから問題なのです。本人は愛していると言う。しかし、客観的に見たら子どもではなく自己愛というパターンは珍しくありません。それが、ダメな職員にはわからないのです。


ただ、信頼関係を土台にした魔法があるのは事実なのです。


その魔法を経験した職員は、児童養護施設の仕事そのものではなく子どもを愛しています。

そして、その子が退寮するまではと思って働きます。

でも不思議なことに、その子が退寮するまでに、次の子を愛してしまうのです。

全員を同じように愛することは不可能です。人にはマッチ、ミスマッチがあるのは変え難い事実です。

だからこそ、プロとして養育者の基本スタンスを持ちながら、それでも内面で愛を感じる子がいる、という状態が理想です。

願わくば、すべての子どもたちが職員からの愛を実感してもらいたい。ですが、私たちも神ではないので難しい。

それならば、運命が引き寄せた関係だけでも、愛の境地に立ってもいいのではないか。

プロは、知識・技術・経験を使って子どもと向き合います。

プロを超えた職員は、愛情・忍耐・時間を使って子どもと向き合います。


もしプロを超えた職員に名前をつけるなら、プロの養育者ではなく、愛の養育者でしょうか。

 

愛の養育者、良い響きだと思います。


愛の養育者は神ではない


私は、愛の養育者になれません。私が愛を捧げるのは、私の家族だからです。

もちろん、愛の養育者に家族がいないとも言い切れない。家族がいても愛の養育者である人を私は知っています。


ただ、愛の養育者は愛情・忍耐・時間を使います。時間はそれこそ、勤務時間以外を使うのです。家族は、いつ帰ってくるのかわからないそのひとを、仕事愛という理由で待たなくてはなりません。


私は、社会人が仕事に没頭することは悪いことだと思っていません。私も、児童養護施設の仕事に没頭するあまり、ほとんど家に帰れなかった時期はあります。それで、家族がしんどい思いをして、今のスタンスに時間をかけて変えていきました。


仕事に邁進することで、家族に給与として還元できるのであればいいのですが、児童養護施設の仕事は基本的に残業で給与が増えることは珍しいです。なので、家族はただただ、仕事に没頭する家族を待たなくてはなりません。


それぞれ事情はあるでしょうが、私は、職員の代わりはいくらでもいるが、家族の代わりはいないと断言できます。


それでも、愛の養育者になって愛情・忍耐・時間をかける職員がいることを、私は伝えたいと思います。


そして、さらに伝えたいのは、愛の養育者を目指して働かないで欲しいということです。


まずはプロの養育者を目指してください。

その上で、どうしてもそれを超えた子どもとの出会いを通じて、結果として愛の養育者になれればいいと、そういうスタンスでいて下さい。


愛の養育者は、セルフケアを忘れがちです。


愛の養育者は愛情・忍耐・時間をかけて養育にあたりますが、そのすべてが、無限にあるわけではないのです。愛情は一方通行だけでは苦しくなります。忍耐は精神的に負荷がかかります。時間は、単純に疲労が溜まります。


そうして、体調を崩して施設を去った人、休職した人を何人も見てきました。

自分の健康があってこそ、他者のことを気遣える。

私たちは神ではないのです。愛の養育者でも、人間なのです。

子どものこと、施設のことを考えるのも大切ですが、同じぐらい自分のことも大切にしないといけません。

それが出来て初めて、本当の意味で愛の養育者になれるのです。


1人でも多くの人がプロの養育者に、そして、その先の愛の養育者になることを祈っています。


願わくば、私も自分の家族がそれぞれの道を歩み始めるのを待って、遅ればせながら、愛の養育者になれることを。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?