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最高に美しくて愛おしくて痛い恋愛映画『君の名前で僕を呼んで』の話

 映画が大好きで、あと映画館という場所が大好きで、映画をよく観る。映画についてインターネットで記事を書いて、それでお金をもらっていたことがあるということもあるかもしれないが、1年にだいたい映画を100本ほど観た。今回はその中で、最も記憶に残っている作品のうちの1本について書こうと思う。

 『君の名前で僕を呼んで』という作品である。イタリアの監督、ルカ・グァダニーノによる作品で、第九十回アカデミー脚色賞を受賞している。主演は本作で史上最年少にしてアカデミー主演男優賞にノミネートされたティモシー・シャラメとアーミー・ハマーが務めた。

 まず本作がどのように記憶に残ったかというと、「ひと夏の美しい恋愛映画」としてである。ここで本作の特徴を挙げるとすれば、主人公とひと夏の恋に落ちる相手が男性同士である点だ。彼らは男性同士として出会い、男性同士として愛し合った。

 最近、時代の流れもあってかセクシュアルマイノリティに焦点を当てた、あるいは一部で描いた創作物が多くなっている。中でも男性同士の恋愛を描いたものは多く見られる(そもそもこれ自体も一部のゲイ男性たちがほかのセクシュアルマイノリティの抱える問題から「抜け駆け」できてしまうから、よくないことだとは思うが…)。

 こういった動き自体は悪くないと思うのだが、どうも一部素直に良いと思えない作品がある。
 男性同士の恋愛を描く際、一部を誇張している作品がそうだ。「男らしさ」を強調したり、性的な部分を強調したり。
 その中で、この『君の名前で僕を呼んで』は二人の男性の邂逅を、どこにでもいる恋人たちのストーリーとして繊細に、時に耽美的に描いた作品であった。もちろん「普通の恋愛」に迎合しようとする訳ではないが、本作のそういった点は時代の中でも大きな意味を持っていたと思う。

 ここから作品の内容について触れていく。舞台は1983年の北イタリア。主人公のエリオ(ティモシー・シャラメ)は、考古学の教授である父親と母親と共に別荘でひと夏を過ごしていた。するとそこに、父のもとで学ぶ大学院生であるオリヴァー(アーミー・ハマー)がやってきた。当初エリオは知的で自信家なオリヴァーを敬遠していたものの、彼と二人で過ごすうちに惹かれていくのだった。

 本作の時代設定について、ルカ監督はエイズが問題となる以前を描きたかったためにこの年代にしたという。ゲイ男性の間を中心としてエイズが流行し、「ゲイの病気」と呼ばれた過去については大変好評を博した映画『ボヘミアン・ラプソディ』でも描かれていたが、本作ではそういった社会での問題よりもふたりの青年、またその周囲の人間の間のことのみで物語が進んでいる。

 主人公、エリオはしばらく自分の気持ちを認めようとしない。
 当時は同性への好意は今以上に奇特なものとされていたし、作品序盤において彼にはお互い好意を持っている同級生の女性がいた。
 その気持ちの揺れはシャラメの並外れた演技力で表現されているほか、細かな演出でも表現されている。音楽の使い方が非常に効果的であったり、生活音(料理の音、泳いでいるときの水音など)の使い方が印象的であったりなど。

 そしてエリオはその気持ちを抑えられなくなっていく。彼は思春期という設定であり、恋に関してもまだあまり慣れていないようだ。
 オリヴァーに肩に触れられると彼の前から出ていってしまったり、彼の服の匂いを嗅いだり、アプリコットに穴をあけて自慰行為をしたり、抑えられない気持ちは行動にも表れていく。
 そしてふたりは恋に落ちるものの、オリヴァーはエリオと異なり恋愛にも慣れているようであり、激しく気持ちを昂らせるエリオを諭すような態度をとっていることがある。
 彼らの部屋の間には洗面所があり、エリオは互いの気持ちを確かめてからはドアを開け放しにしていた。それに対してオリヴァーは「まだ早いよ」というように必ずドアを閉めているのである。

 先ほど演出が効果的であると述べたが、本作の特徴的な演出に「エリオの周りを飛び回る虫」の存在がある。
 舞台となるエリオの両親の別荘は山村地にあるため、自然が大変豊かで、彼の母親が庭の木から果物をもぐようなシーンもたくさんある。
 その中でも確実にわざと映されていたものが、エリオの周りを飛び回る小さな虫である。おそらくハエのたぐいであるとは思うが、いくつかのシーンで彼の顔の周りを飛び回っているのである。このハエには確実に意味が込められていると考えられる。

 このハエが持つ意味とは「ためらい」であろう。
 ハエが登場するシーンのうち、エリオとオリヴァーが並んで湖畔で寝そべっているシーンがある。まだお互いの気持ちを確信できておらず、エリオは彼に触れることができない。ここでハエが飛び回っており、エリオはそれを邪魔そうに振り払う。ハエが画面から消えたのち、ふたりはキスをするのだった。
 ハエを振り払うことでエリオは行動することを思い切る。エリオが抱いており、彼の葛藤の種となっている「自分の想いへの罪悪感」、そしてそれによるためらいをハエは象徴していそうだ。

 また、エリオの父親が考古学者であり古代ギリシャの彫刻などについて研究しているということ、本作の中で「食」にまつわるシーンがたいへん多いことのふたつもテーマに大きく関わっていそうだ。
 古代ギリシャにおいては男性同士の恋愛は一般的なことだったという。それは、そんな歴史を知りながら、自分自身の感情をなかなか整理できずにいるエリオとは対照的に描かれている。
 エリオとオリヴァー、またその家族が食卓を囲むシーンや、エリオが果物をかじるシーンなどが多いのも、「食」と「性」との近さを描く意図があったのだろう。

 そして、本作の素晴らしかった点のひとつが和訳である。
 激しく恋に落ちるふたりであるが、夏が終わりオリヴァーは母国、アメリカへと帰って行ってしまう。
 それから季節は過ぎ、エリオの元へオリヴァーから電話がかかってくるのだ。ふたりはたわいのない話をするが、その後夏のことを覚えているかを確かめ合う。そしてオリヴァーは「I remember everything.」と告げた。
 直訳すると「すべて覚えてる」になるところが、本作では「なにひとつ忘れない」と訳されていたのだ。このふたつの訳の印象の違いはすごく大きなもので、後者の持つ強い思い入れと「忘れない」対象をいかに大切に思っているか、というニュアンスを前者の訳は含むことができない。

 全体を通して、瑞々しさのある美しい恋愛映画だった。核心に触れずに、なるべくネタバレをせずに書くよう心掛けたが、核心に触れたとしても抽象的な言葉で語ることが合っていたかと思う。

 本作で効果的に用いられていたのがアプリコットという果物だ。エリオが木から果実をとったり、オリヴァーのために皮をむいたり。そのアプリコットが気になって調べたところ、花言葉は「臆病な愛」だった。

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