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愛すべきディズニープリンセスの中でベルだけがどうしても愛せない

 昨日の金曜ロードショーは観なかった。なぜなら『美女と野獣』のベルはディズニープリンセス史上最も気に食わない女だからである。

 わたしの母は白雪姫が嫌いだと言う。その理由は「ディズニープリンセスの中で1人だけかわいくない」「ドレスが変」などらしい。
 確かに他のプリンセスと比べてみると、絵柄が少し古いからか、確かに少し垢抜けない感じはある。チークの入れ方が野暮ったいのだろうか。それか聖子ちゃんカットを彷彿とさせる微妙な髪の巻き方や白すぎるファンデーションもその理由かもしれないし、確かにドレスの配色は、正直言ってダサい。

 しかしわたしは白雪姫にそれ以上の感想はない。かといって好きでもない。おそらく、同世代の他の女の子たち(とひとくくりにするのもおかしいのは重々承知しているが)に比べ、ディズニープリンセスたちへの思い入れが薄いのである。

 わたしたちが小さい頃、母は比較的自由にやりたいことをやらせてくれていた。ブラジルに住んでいたんだけど、行きたいと言えばプールにでもお菓子屋さんにでも連れて行ってくれたし、リビング(たぶん日本の一般的なリビングの3倍くらいの広さがあった)で自転車の練習もさせてくれた。
 それでも彼女が、唯一自分からはしなかったのが「プリンセスものの絵本を読み聞かせる」ことだった。わたしや姉がねだるまで彼女は決してそれをしなかった。し、読み終わってからも「あなたたちにも王子様が来るといいね♡」とは決して言わず「はいおしまーい、寝よ寝よ」とドライに締めていたらしい。
 その理由は「白馬の王子様に憧れ、王子様を待つような女には絶対になってほしくなかったから」だそうで、その望み通り姉は動物に例えると猪、猛ダッシュで王子様を追いかけるような医者になり、わたしは動物に例えると猫、来る王子様は拒まない代わりに去る王子様も追わない、というかそもそも王子様にさほど関心を持たない、そして極めつけとしてフェミニストの、ライターになった。

 そういう幼少期を過ごしたわけなので、本格的にプリンセスの物語に触れたのは大学に入ってからである。アルバイトを始め、初めて自由にできるお金が手に入ったわたしは映画を観ることを覚えたのだった。だからわたしは「憧れのおとぎ話」としてではなく「古典の名作」としてプリンセスたちの映画に触れたのであった。

 『美女と野獣』をきちんと学んだのは大学1年の頃の講義であった。早稲田大学には「イメージ論」というなんとも漠然とした名前の講義があり、そこでわたしは「4年間の大学生活の中でこの人の講義を受けられて本当に良かったと思う先生ランキングベスト5」を作るなら絶対に入ってくることになるH先生と出会うのであったが、それは今回はさほど関係ない。

 H先生は講義で『美女と野獣』を扱った。人々の中に潜在的にある「変身」への欲求を説明するのにちょうどいい題材だったからで、わたしはそこで初めてきちんと『美女と野獣』のストーリーと向き合った(ちなみにこの時観た、レア・セドゥ主演版の『美女と野獣』は本当に、本当に美しくて良かった)。

 『美女と野獣』の物語、特にディズニー版のそれは大きな矛盾をはらんでいる。「大切なのは見た目ではなく、心の美しさだ」というメッセージを、暴力的なまでにロマンティックな音楽と映像の力でもって訴えてくるのに関わらず、ベルが町一番の美女でなかったとしたらあの物語は始まらなかったはずなのである。
 もしベルが美しくなかったとしたら、まずガストンがあそこまで彼女に執着することはなかっただろう。そうなると野獣の城に彼が襲ってくることはなかっただろうし、野獣たちにかかった呪いはそのままであっただろう。それに、もしかしたら野獣もベルのことを愛さなかったかもしれない。そうなれば物語は終わりである。ベルは父親の代わりに城に閉じ込められたまま、コグスワースもルミエールもあの姿のまま(彼らももしかしたらベルを丁重にもてなさなかったかもしれないのだ)、野獣もあの姿のまま呪いが解けず死んでいっただろう。
 第一ヒロインの名前が「ベル」つまり「美女」な時点で、この物語に多少なりともルッキズム的要素が含まれているのは確定的なのである。
 それに野獣も最終的に美しい王子に戻るわけで、結果だけ見てしまえばこれは「美しい町娘と美しい王子が愛し合い結ばれる物語」にほかならない。

 そしてわたしは、この物語以上にベルというプリンセスがなんとなく気に食わない。眉毛の形が好みじゃないとか、リップの色が好きじゃないとかそういう話ではない。むしろ黄色いドレスがよく似合って素敵だと思う。

 ベルは町一番の美女でありながら、どこか変わり者で本の虫という設定だった。野獣から本をプレゼントされた際も目を輝かせて喜んでいた。
 しかし作中で彼女がその「知性派キャラ」を活かすことがあっただろうか?彼女が作中で活かしたのは「父親を助けに行く勇敢さ」「おそろしい姿をした野獣にも分け隔てなく接する心の優しさ」だけなように思えてしまうのだ。教養を活かせ、教養を。お前は頭を使え。
 あとは、美しさ。彼女が美しかったがために、野獣は彼女を愛し(これに関してはそれが全てだったかはわからないが)、町の民衆たちはベルを助けるために動き、勝手にガストンと野獣の戦いが始まったのである。

 ベル以外について考えたとしても、あの頃のディズニープリンセスの物語とルッキズムは切り離せない要素であることは実際確かなことであろう。
 ベルが美しかったから周りの人物たちが動いて物語が進行したのと同様、白雪姫は美しかったからというだけの理由で継母に憎まれ毒リンゴを渡されたのだし、オーロラ姫にいたっては寝ていただけだが美しかったために物語が進んだとも言えそうだ。
 そもそもプリンセスがそういう(=美しさやエレガントさの象徴的な)役割を求められるのが当然な時代だったのかもしれないし、憧れの女性像というのもその頃と今とではだいぶ違う。

 しかし、ベルだけが気に食わないのはなぜなのであろうか。おそらく、彼女の物語が「人は外見じゃない」と言っているのに対し、わたしはこう思ってしまうのだ。「それはあなたが美しかったから、外見で差別されることを知らないから言えるんでしょ」。
 半分妬み、半分矛盾への苛立ちである。

 わたしは自己肯定感が100点満点でマイナス200点くらいの人間で、22歳になった今でこそ「自分はかわいい顔をしている」と思えているが、それは周囲が自分のことをかわいい、美人だと言ってくれるからそうなのであろう、という分析に基づくものなのだ。
 というか、この社会での外見至上主義に傷つけられ続けた昔の「かわいくなかった」わたしは「かわいく」なれば幸せになれる、と信じていたのである。だから外見に執着し、ダイエットをしたり高い化粧品に投資したりした。
 その結果が現在の「かわいい」わたしだが、自己肯定感は未だに低いままだ。周りのみんなに褒められても、知らない誰かに「ブス」と言われればその「かわいい」は一瞬で砕け散るだろうし、わたしは半ば自己暗示のように必死でその「かわいい」に縋りついているのである。


 それでも「かわいくない」時代から今までずっと一緒にいてくれた人はいるし、その人たち以外にも「かわいい」以外の言葉でわたしを認めてくれる人もいる。
 だからわたしは「人は外見じゃない」と理解できる。けど、それは「人は外見」という意見を持つ人たちによって苦しめられた経験があっての結果であるのだ。

 だからベルが気に食わない。中身(知性とか教養とか)があると見せつけておいて、結局外見で認められ「人は外見じゃない」と美しい顔で踊りながら訴えてくる彼女が、妬ましくて苛立たしくて、嫌いなのだ。

 ちなみに、プリンセスの中では王子様のいる地上や恐ろしい魔女のところに泳いでいったアリエルと、氷の城を気持ちよさそうに築き上げたエルサが好きだ。

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