憧れていた早稲田を愛せなくて、わたしは苦しかった
皆さん卒業おめでとう、わたしも先日4年間過ごした早稲田大学を卒業しました。
こういう世の中だから卒業式がなくなって、その知らせが来たときTwitterのタイムラインではみんなが残念がったり悔しがったり悲しんだりしていて、でもわたしは卒業式に行くつもりがなかったから特に何もなかった。強いて言うなら、袴をわざわざレンタルした子たちかわいそうにな…とか。
卒業式に行くつもりがなかったのは、袴に特に憧れがなかった(両親が見たいって言ったら着るつもりだったけど、別にどうでもいいと言われたので)からだけじゃなくて、会いたい人以上に会いたくない人が多かったから。
むかしから「人」に対する警戒心が異常に強くて、クラス替えは毎回クラス全員プラス担任の先生が怖いという状態からのスタートだった。
でもそれだけじゃなくて、早稲田に特になんの思い入れもなかったから、というのが主な理由だった。
早稲田に入りたい、と思い始めたのは確か高校2年生の頃。早稲田の文化構想学部の文芸・ジャーナリズム論系というところではどうやら文章を書くことが専門的に勉強できるらしい、と知った当時のわたしは新聞記者志望だった。
どうにかこうにか文化構想学部に入って、どうにかこうにか文芸・ジャーナリズム論系に入った。サークルも1年生の初めの頃に適当なところに落ち着いて、なんとなく一緒に授業を受ける相手もできた。
でもわたしはずっと「早稲田」を愛せなかった。
そもそも早稲田大学に入りたかったのが、文章を書く勉強がしたかったから、というそれ自体に惹かれたわけではないというところにもその理由があるのかもしれない。
でも昔からダメなのだ。昔からわたしは1対1以上での対話ができない。1対多数の対話ができないし、だから個人のことは愛せても集団が愛せない。集団が愛せないから「中」に閉じ込められると途端に息苦しくなってしまう。
たぶん先に書いた「人」への警戒心の強さもその要因なんだと思う。おそらく前世がハリネズミかなんかで、個人への警戒を解くのでいっぱいいっぱいだから「多数」とか「集団」になると心の容量をオーバーしてしまうのかもしれない。
でもそれだけじゃないと思う。とにかく「中」にいるのが苦しかった。サークルが、ゼミが、教室が、早稲田大学が、高田馬場の街が苦しかった。サークルの人と仲良くなったのはサークルを引退したあとだったし「中」で苦しかった時によりどころになっていたのは、大学ではほぼ顔を合わせない高校時代の友人とか、キャンパスも学年も違う、知り合ったきっかけもわからないような友人とか、つまりは「外」の人たちだった。「外」を渡り歩くことでわたしは心を癒していた(もちろん休みの日はひとりで過ごすのが好きだった)。
おそらく「中」の情報過多さがわたしにとっては苦しかった。
早稲田祭が嫌いだった。ステージでパフォーマンスをする側だったけど、踊っている時間以外は楽しめなかった。それは人が多いからでもナンパがしつこいからでもなく「早稲田がサイコー」という空気感が本当に息苦しかったからだった。
あなたたちの周りは確かにサイコーかもしれない、でもどうしてそれだけで「全体」がサイコーだと言えるの?これがわたしが彼らに対して思っていたことである。「中」を愛せる人特有の全能感がただ怖かった。そして妬ましかった。
たとえば「中」が水のようなものだったとして、そこに小石を落としたら波紋は中心から外側に行くにつれて薄まると思う。たぶんわたしは中心から本来受ける必要のない外側の波紋の影響までを衝撃として受け止め、というか受け止めきれずにいた。
「人」を警戒しているから、いつも悟られないようにひとりでも平気、という顔をしている。そしてこっそり、周りをきょろきょろして逃げ場を探していた。そうして「外」に逃げ場を見つけるまでに、その過程で受ける必要のない水圧を受けてしまっていたのだと思う。
それもあって「節目」も嫌いだった。その共同体、つまり「中」の人たちでひとつのタイミングを共有するのがなんとなく嫌だった。入学式もなんだか退屈だったし、卒業式も行く気がなかったし、あした(もう今日か)からわたしはインターンをしてきたメディアの会社で働き始めるけど、入社式がなくて正直安心している。
環境の変化に弱いのだ。わたしはわたし個人と、閉ざされていない・あるいはくくりの非常に緩い「中」を認識して生きていくのが向いている。今日(もう昨日だった)もそういえば学生最後だったけど、とにかく「普通」に過ごした。あしたからも何も変わらない、リモートワーク・お昼休憩・時間になったら作業終り、が待っているけど、それで安心している。
でも本当は、卒業式がなくて残念がってみたかった。わたしが苦しみにふたをして選んできたのだから今どうこう言っても仕方ないんだけど、早稲田サイコー!と言ってみたかった。「中」のみんなを愛したかった。
「物書きって0から1を作る仕事だからなれる人間は少ないんだけど、物書きになるやつはなりたくてなるんじゃなくて物書きにしかなれないからなるんだよなぁ」
先日、しんどいときにひとりでよくボーっとしていた36号館のラウンジで恩師(プロの物書きとして活躍されているので、彼のゼミにいた、と言うとみんなえーっどんな人!?と目を輝かせて聞いてくるが、実際はフランクなおじさんである)に言われて深くうなずいた。わたしは物書きにしかなれない。恩師もそれをわかっていて言ったのだと思う。
「創作の『創』という字は『傷』という意味がある。書くことは傷つくことだし、傷ついたことで生まれるものもあるんだよ」
その直後に恩師にこう言われた。
ここで受けた傷は、なかなか心を許せる友だちができなかったこと、サークルがしんどくて辞めたかったこと、やっとできた友だちだと思っていた人に裏切られたこと、セクシュアリティを否定されたこと、女の身体で生まれたというだけで男の人にねじ伏せられて生まれてきたことを悔やんだこと、信じていた人に一番言われたくなかった侮辱の言葉を吐きかけられたこと、親友の苦しみを受け止められなかったこと、最後まで「中」の一員になれなかったこと、真夏の図書館のトイレの個室でうずくまって泣いたことは、いつか、なにかになるんだろうか。
わたしはいつも、終わりが近づいてから「そこ」にあったものが少しだけ愛おしくなる。
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