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#2「flower」「祭りのじかん」レビュー

20年ぐらい前に書いた文章改めて読み直すと恥ずかしいですね。
「忘れ咲き」のカップリング曲ですが、個人的には「祭りのじかん」が結構ツボですね。知り合いだらけの人混みは孤独と一番遠いところにあって、そんなとこで孤独を貫こうと思うと変なやつか嫌なヤツになっちゃいますね。(笑)
あ、ロンドンに暮らしたことがあるんだけど、街を歩いて耳に日本語がはいって来ない生活は結構快適で良かったですね。
十分変なやつかもしれませんね。

「Flower」


この曲は「忘れ咲き」と比較すると、今回のシングルに収録される3曲に共通する孤独感と現実認識が、
かなりストレートに歌詞に現れてきています。

出だしでは映画のマトリックスばりに、自分の存在すると認識する現実世界が本当の現実なのか?
まるでモノクロームの写真か映画のように描写され、歌詞の痛烈さに比べ聞くものに非常にビジュアルに伝えてきます。そのモノクロームの映像の中に唯一の色彩である黄色い花を置くことを唯一の救いと見なして、その世界の中で生きて行くことを「幸せになれる」という言葉で表し、それを認めてしまうことに対する不安や恐れを「おちてゆきそう」という歌詞で表しています。

前記したように今回の作品にはヴィトゲンシュタインの影を感じるのですが、特にこの描写にあたっては彼の言語が像を持っているという考え「 言語と世界は切り離すことができない。世界そのものが言語であるとし、私たちが言語化しているもの(命題)はすべて像をもっている。」という言葉を思い起こさせます。

自分たちが存在する世界をまるでヴァーチャル空間のように捉え、その中に生きざるを得ない状況の中ですら得られる安らぎを歪んだものと言い切り、人がそれに気づかない事を「わからないから楽しい?」と疑問を我々に投げかけてきます。そしてはっきりとreality=現実感を求めることの空しさをぶつけてきます。

あなた達は人が何処から生まれ何処へ行くかという、自己への探求の旅を目指すことをうんざり?と追い打ちをかけるように問いかけてきます。
偽りの世界で生まれる偽りの愛情を真実として生きる人達に逃げ場などないと。
一度咲いた花が必ず枯れるように、変わらない愛はないと。

混乱の現実を煩わしいと感じながら同時に、その中に身を置くことによって得られる孤独感や偽りの愛=黄色い花を愛おしく思う自分がいる。

一見難解な歌詞や社会批判と取れるような歌詞により、美しい思い出を喚起させるような日本語で書かれた「忘れ咲き」とまったく正反対の性格を持った歌のようにみせながら、実は底辺に流れるものは同じものに感じられます。
メロディー、歌詞の表現の違いという組み合わせにより、聞くものに対してまったく異なったイメージを与えることを可能にしています。

以前から実は思っていたのですが、ガーネットの楽曲は「歌」とメロディーと同時に認識される歌詞、紙の上に書かれた歌詞でかなりその楽曲の解釈が変わってきます。歌詞を読んで初めてわかる事も多く、このflowerにおいても聞いているだけでは、あるいは目で歌詞カードを漠然と追いながら聞いていたのでは、疑問符として投げかけているかどうかの判断が付きにくい箇所が随所に見られます。
曲と歌詞が一つにまとまった状態で楽しむことと、純粋に文字として詞を楽しむという二つの異なったアポローチによってまったく違った楽しみ方が出来ます。
これらを意図して計算して行っているとしたら、このグループの非凡なる才能に脱帽です。


「祭りのじかん」



実は今回の中ではこの曲がもっとも気に入ってます。
一人になって自己と向かい合う時間を持つことが好きな人種は、ともすれば「ひきこもり」と取られたり、孤独癖があると取られ、周りから心配されたりするのですが、自己と向き合う為にはそういう時間が実はとても大切だったりします。
そうは言っても現実社会に置いては、なかなかそのような場所も時間も持つことが困難です。
逆だと思われがちなのですが実はその意味では人混みというのは、孤独を満喫できる数少ない場所です。
集団の中にいるからこそ、孤独になれる。孤独を楽しむ事が出来るのです。
一人になれる場所と賑やかな場所、どちらも孤独になれる場所だったりします。

この曲は、普段静かな場所として愛していた場所が祭りによって、賑やかな場所になってしまう。
もう一つの一人になれる場所だとわかっているのに、その空間がずっと続くものでないことを知っている。
だからあえて祭りが通り過ぎるまで避けて行こうと。

突然現れてそして消えていくことの戸惑いと寂しさ。
孤独を愛する人間にとってそれは近づきたいような、近づきたくないような不思議な感情を呼び起こさせます。
はかなく消えるものだからこそ輝いて引きつけられる。でもそれが一時のものだと知っている寂しさ。

なぜ、人はひとときのものと知っていながら、そんなにキレイに揺れるように楽しめるの?と
疑問を投げかけてきます。

一人が好きでありながらも賑やかさに人恋しさを募らせる自分。
一人になれる場所だと知っていながらそれがひとときのものと知っている自分。
二つの感情の中で揺れ動く心理を、たくみな祭りの描写によって描き出しています。
流れていく「祭りのじかん」は、まるで実態のない現実のように感じます。
祭りの後の寂しさよりも祭りそのものに賑やかな寂しさを感じます。

ロックのテンポの良いリズムに乗せて、この詩は歌われます。
賑やかだからこそ感じられる寂しさをそのままに。

こうして考えて言ってみると、実は今回の3曲はある意味一貫したテーマで語られていることに気づきます。
孤独感と現実感の認識という二つのテーマが、時にはオブラートに包んで美しいバラードとして、時には痛烈な毒をい感じさせる歌詞として、そして時には全く正反対のメロディーにのせて。

あくまでも私の私見ですので、本当にAZUKIさんがこう考えて作詞したかどうかはわかりませんし、人それぞれで感じ方があって当然です。
ただ、こんなふうに自分自身の引き出しを開けさせるほど、今回の3曲の作詞は巧みであり、どう考えても彼女の詩からは不思議なことに東洋思想の無常観や死生観、西洋哲学の問いかけを強く感じないではいられません。
特に今回の3曲からは、初期の無常観や死生観から人間の存在や世界の認識といった西洋哲学の色を強く感じられます。ガーネットの曲は歌として、また詩(うた)として2度楽しませてくれます。


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