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井戸を掘る
人は皆、自分の井戸を持っている。
純粋で清らかな知恵の湧き出す水源を。
人それぞれに深さも広さも違う。
掘り下げる場所によって”水質”も違ってくる。
一度井戸を掘ってみると、勘どころやコツのようなものが身につき、
場合によってはいくつも掘れる人がいる。
深さによっては難易度や層も変わってくる。
井戸は知恵・知識・経験・技術と、何にでも置き換えることが出来る。
これらの井戸は、人により目的によっては深いに越したことはないかもしれないが、あまり深すぎると別のものに辿り着く可能性もある。
しかし、このハプニングもまた人生。
深い分だけ学びは深いが、しかし視界は狭まる。
どちらを選択するかは本人の自由。
深さは重要だと思うけど、井戸を掘るプロセスもまた重要である。
目的を定めて掘る場合と、成り行き(これも必然と考えますが)で掘り始める場合など、目的意識なしでもかまわないと思います。
掘り始めた事実、これが重要だと考えます。
ここを掘れと人に言われて掘る場合と、自ら場所を定めて掘り下げる場合。
深さや場所によっては一定していた質が途中で変化することもある。
途中で質が変化して納得いかなければさらにもっと深く掘ってみたり、方向を変えて横に掘り進むことも出来る。すると以外と驚きの水源が見つかることもある。
選んだその場所を何かの理由であきらめるのも一つの選択だけど、新たに掘る労力を考えると掘り続けるのがいいようにも思う。
そうすることにより、そこにさらなる発見が待ち受けているかもしれない。
一生のうちに人が掘れる井戸の深さや数には限りがある。
深さ優先か、数という経験を優先するか、どちらも正しいことだと思う。
身についた感覚や感性・経験は何物にも代えがたい。
たまには地上まで上がってきて、世の変わりように触れることは、さらなる成長に繋がるかもしれない。
「井戸を掘る」というのは、ある意味「意図を掘る(掘り下げる)」に通ずるところがあって、自分の中の魂と対話しつつ”意図=本来の目的”を確かめつつ深めていくことといえるかもしれない。
井戸を掘らずして、そこに座り続けるのも”意図”あってのことであれば、
それもありか。
くれぐれも”井の中の蛙”にならぬよう注意したいものです。
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