お世辞にも綺麗ではないけど、優しい【キュンチョメ】
ゆるくてゆるくない作品
初めてキュンチョメの作品をみたのは2013年の中之条ビエンナーレにて。中之条の民家にあった狸の剥製とか雑貨を拝借して背景を作って、自撮りができるスペースみたいな作品。タイトルも曖昧だけど、こんな愉快な作品は他にはなかったので大学生の自分はとても楽しかったのを覚えている(中之条ビエンナーレのアーカイブに残っていた)。
作品のゆるさに惹かれこのユニットが頭に残っていた。
しかしこのユニット、全然ゆるくない。
食べ物や原子力、様々なものをテーマにした作品はお世辞にも綺麗なものではなくって、不器用で、手垢にまみれていて、人の気配が色濃い作品ばかりだ。
何より言葉にしやすくて届きやすい、鋭い。
ナイフのように鋭利な表現
2013年の岡本太郎賞に《まっかにながれる》でエントリーし、見事太郎賞を受賞。その作品には大量のお米が使用されていて、踏んで行かなければならない罪悪感があった(その後に勤務することになるギャラリーでは乾燥した海苔も展示してはいけない決まりだったので食べ物を配置してもいい美術館の度量も羨ましかった)。
高円寺で開催されていた〈ここではないどこか〉を訪れた時も廃墟感ある空間とお花を踏んでいかなければならない導線に動揺した。
ショッキングな作品たちで、ここまでナイフのように尖った表現に立ち会うのが初めてだった私の心に突き刺さりまくった。
このユニット、結構話題になるのでは?社会派の現代アートに刺激になれていなかったなりに気になり始め、展覧会情報をこまめにチェックするようになりその後も渋谷のRedBullや3331に見に行った。どれも見応えのある作品ばかりだが、初期の作品の目撃者になっていることは私のささやかな自慢である。
一貫して刺さる表現ばかり目立つこのユニット。
社会の痛い部分を浮き彫りにするような批判的なメッセージを感じる表現が多いが、映像作品の中だとホンマさんのひたむきな姿が対比として浮かぶ。
メッセージは痛烈なのに、その主犯格であろうホンマさんが鑑賞者に訴えかける姿が相反して賢明なので感情移入してしまい、こっちまでハラハラしてしまう。
こういった作品はクールで冷静なものが多いので記憶に残るのはそういったこともあるのだろうか。
《声枯れるまで》
あいちトリエンナーレの《声枯れるまで》は、ジェンダーをテーマにしている映像作品。
性別と名前を変えた人とアーティストが一緒になって声枯れるまで新しい名前を叫ぶというもの。
会場で見たときに、涙が出てきた。
なぜ自分の生きたい性別と名前になることが、勇気のいることなのか、自分に合うものを選択することはいつだって自由なはずなのに。
名前を叫ぶ声に自分の気持ちが呼応してぐっと締め付けられる気がした。
文化祭の出し物のような体裁なのに、いつだって芯が強くて温かい手で心に触れてくる。
お世辞にも綺麗とは言えない出来だけど、伝えたい気持ちが真っ直ぐに飛んできて、自分の中にじんわりと残り続けるのだ。
作家紹介
■キュンチョメ
※初めてキュンチョメの作品を鑑賞した芸術祭の当時のアーカイブ
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