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餅屋さん -ここ1.5年くらいを振り返ってしまった

餅は、信じられるお餅屋さん、というお話。

今日は超音波おじさんがやってくる日です。僕の超音波測定機を作ってくれているエンジニアさんです。マウスの超音波発声(鳴き声)を測定するだけでなく、一緒に脳の活動を録ったり脳を刺激したりしようということで、そのシステムを作るために鹿児島まで来てもらいました。

初めて出会ったのは、大学院で博士を取った後、ポスドクとして初めての研究室で仕事を始めた頃です。そのラボに機材を入れていらっしゃり、まず

「かんのさん、音とは何でしょう?」というところから教えてもらいました。

初めてのことだらけで、あの頃があるから今があるのですが、非常につらいというか、鬱屈とした時期に、技術的なことをいつも支えてくださった方です。あの頃から今に至るまで、研究上のさまざまな困難を解決してくれました。

いまの実験室の飼育ブースも、設計して作っていただきました。

滞在時間との戦いで、なかなか壮絶でしたが(1度では済まず、2度来てもらいました)、良い思い出です。まだまだ途中ですが、実験室の立ち上げには、さまざまな困難がありました。そして、さまざまな方の支えがありました。一生感謝しましょう。

今日は、午前中のうちに計画している実験系の内容をおさらいして、実際の機材の実物を見てもらいました。僕から超音波おじさんへ実験機材と実験技術の説明、反対に僕への工学的な説明、これを繰り返し、そのうちに、互いの理解の不明瞭なところ、僕の理解が出来ていないところの整理、そして解決方法の模索をしました。ほぼ、午前のうちに、超音波おじさんは全てを解決するシステムの構成を思いついたようです。心強い。

ゼミです

生協のお弁当を食べ(歯磨きをして)、3限はゼミです。今日は2年生が2名見学です。1人は、先週も来た学生さんです。ゼミの内容は3年生2名の研究計画進捗報告です。局長の後輩である主将は、発表のコツというものを覚えたようです。

「よくできていたと思う」と僕が言うと、

「ほめられたことがないのでリアクションに困る」という回答。

この顛末を、ゆとりさんに話したら「なんだその「笑えばいいと思うよ」展開。そして、誰かそう突っ込むべき」と曰われました。

もう1人の発表はUmちゃん。だいぶまとまってきました。そろそろ、研究計画書各種をまとめてもらいましょう(と、ゼミで念を押すのを忘れた)。他のラボメンからも結構意見が出て、上手に議論がなされたと思います。みんな、大変よろしい。

再度実験機材の調整

実験室でまた超音波おじさんと打ち合わせ。その間、OGのYさんがやってきました。3年生のGiくんの文献探しの打ち合わせも一緒にしました。結構お話をしました。

Yさんと超音波おじさん、Giくんも昨年度のうちから面識があります。Yさん(と同期のRnさん)は僕の1期生で、卒論をやるまでに実験室を稼働させられるか冷や冷やでした。なんとか最低限整いましたが、

卒論提出の日は、僕がほぼ徹夜で白目を向いてました。今年の局長の卒論は、そんなことにはならないのだゾ!

Rnさんの卒論も、Yさんの卒論も、後輩の研究につながってます。いい投稿論文に仕上げたい。

超音波おじさんは、ラボの1期生送迎会にも来てくれました。飼育ブースにみんな(Yさん、Rnさん、局長、Rnzくん)で桜島を描きました。ちょうど、この方角に桜島があります。僕の下地を、もっと末広がりに描くべきだった。

この絵を描いたあと、林光華園で送迎会でした。当時まだ2年生だったRnzくんとGiくんも来ました。補足ですが、Giくんは、ディアボロ(中国駒)の修行をしています。


珈琲、そしてまた別の測定

超音波おじさんと、大学の近くの老舗喫茶店 珈琲いづみ で休憩。ここの珈琲は、鹿児島のみさなんは大好きなことでしょう。超音波おじさんは豆を買われました。

夜は、また別の測定をしました。これが、うまくいきません。原因不明。光を検出する機械が、光を検出していることが確かめられないのです。オシロスコープを繋いでトライしました。検出器のディーラーさんに質問のメールを書いて、ついでに学内の仕事のメールなどをして、帰ることにしました。

ちなみにですが、僕も一台くらい、オシロスコープを持とうかなと、思っています。こういうの、できるようになりたい。

ととや(一條通り店)で夕飯を頂きながら、お話ししました。

今日の経過を振り返り、実際に声に出して話してみることで理解が深まるし、一気に解決するものだ、という話をしました。これは、技術的問題を扱っているので一般的な「顔を合わせたコミュニケーションが大事」というのとは、ちょっと異なるとは思います。

言葉にする、声にすることで、相手に伝えることのみならず自分からも相手からもフィードバックがリアルタイムであることが、理解の構造を確かにする感覚というのは、確かにあります。

これは、人間の個人というものの限界だな、とも思いますし、人類やチーム、社会というものが持つ可能性かな、とも思うところです。

明日も、また1つ何かを解決できますように。


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