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書くことの積み重ねによって、書く(中毒)

かなり久々になってしまいました。もう、振り返って過ぎた日のことを日記風に書くこともできません...

ここのところは、書ける時間の全てを、研究プロジェクトの立ち上げの文章書きに使っていました。あとは、日頃の学務とか、ラボメンの卒業論文研究計画書の直し、およびそのための構想の話し合いとか。卒論の研究計画書は、目処がつきました。

大学の年度末は、おそらく一番忙しい時期です。期末試験の採点やレポートの採点、成績の提出、入試関連業務、次年度の新入生対応の準備などです。しかし、流石に4回目の年度末なので、成績関係は計画的にこなして、焦ることなく余裕で終わりました。あとは明日事務に提出するだけ。

昨年は、僕の主担当の講義の「神経科学」の登録者が163人もいて、時間的にかなり大変でした。今年は、開講曜日・時限を移動したりしたせいか、55人の登録だったので、採点も楽に感じました。大勢に伝える良さもありますが、専門性は高めの授業なので、これくらいがちょうど良いかも。

僕の授業では、SF小説を読んで、神経科学の知見を活かしながらレポートを書くという課題を出しています。

このレポートは、何に焦点を絞って書くかも、学生に委ねているので、授業後のアンケートでは「難しかった」という意見が9割。一方でこのようなレポートは「あったほうが良い」という意見も9割ということで、考える機会を創出するのには、うまく機能しているのかも?と思っています。

備えは日頃からしないと持ち得ない

レポートなどを読むのは、この数年で相当はやくなりました。人を評価するというのは、しかし、あまり気持ちの良いものではありません(ある程度慣れましたが)。昨年は、単位を落とす人が多くなりそうな見込みだったので、全員の点数を底上げする措置を取りました。今年は、その様な対応に苦労したり、個別対応にいろいろ悩まない様に、事前に採点基準や約束事を徹底して伝えたつもり。その甲斐もあったのでしょう、とても楽でした。

レポートを読んでいると、書くことのうまさのみならず、日頃、どれくらい勉強しているかも、よくわかります。この「勉強している」というのは、「”真面目”にテスト勉強をする」というのとは、ちょっと違う。これまでに、どれくらい書物を読んできたか、そこから自分で考えてきたか、ということ。書くことのうまさは、書くということのトレーニングをしないと、うまくはならない。つまり、アウトプット。自分で考えることもアウトプットのうち。この差が、文章に如実に現れる。すくなくとも、よく読んでいる人はおかしな表現を使わない。一方で、あまり普段書物を読まない人は、引用のスタイルもおかしければ、言い回し、語尾なども、ちょっと違和感がある。

不思議だな、と思うのは、本や論文、ネット記事とかwebマガジン、雑誌や新聞など、他の媒体では読んだことのない、学生のレポート特有の書き口があるということです(あまり良い書き方には感じない)。なぜ、学生さんの文章、言い回しが似通ってくるのか、そのメカニズムがわからないのだけども、高校までの間に、変な癖がついているのか、1年次のレポートで癖がついたのか。わかりません。おそらく、アウトプットするときのことを意識せずに読んでも、「読めない」んだろうな、と推察しています。

僕の授業の受講は、2年生が一番多いのだけども、3-4年生も受けていますし、他コース・他学科の学生さんも受けてくれています。この多様性には、ハッとすることがあって、サイエンティフィックな書き方、引用文献の調べ方とはちょっと違っていても(うちは心理学コースですが、心理学も海外では、もしくは学術としては科学の内です)、文章は非常にうまいという人もいます。文学や、歴史、哲学など、とにかくたくさん読む分野だからかな?などと考えながら拝読しています。3-4年生になると、卒論を始めるからなのか、自分の専門に引き付けながらレポートを書いたり、そもそも、考え方・着眼の筋が良い、というレポートもちらほらあります。

たまに、僕の方が「ちゃんと読めていないのかもしれない」と思い、読み返す様な文章もありますし、出題者である僕の方が、何かを突きつけられる様な思いがするレポートもあります。

こういうところに、教育の可能性みたいなものを感じます。

何度か、このレポートをやめようかとも、思ったことがあるものの(採点が大変なので)、僕自身の発見もあるし、先ほど述べたアンケート結果もあるので、もうしばらく続けようかなと思っています。

我々は、書き続けなければならない

以前、こんなことを書きました。

人にすぐ見せるためには、なんらかの媒体として情報をポータブルにしておく必要がある。最近では、動画もあるし、グラフィックデザインもあるし、いろんな方法がある。それぞれに、伝わり方の特徴はあるわけで、うまく使い分ければいいわけだが、やはり、最も基本的で、誰でも使うことができ、誰でも使わなければいけないのが、言葉なんだろうなと、思います。少なくとも、込み入った話や、公的なものは、文章で伝えないといけない。


こんな本を、立て続けに読みました。

こちらは、お正月の数日で読んでしまい、noteにも書きました。

とにかく、日々のスケジュールの中に、「書くための時間」を確保すること。週に4時間確実に設けるだけで、周りとの差がつけられるということで、僕も10月から12月の3ヶ月でnoteに11万字くらい書きました。新書一冊分です。


続編はこちら

とにかく、「残る」文章を書かなかればいけない。僕らであれば、論文。一方で、面白いことも書いていて、著者もブログを書くのが楽しいらしく、おそらく、最も広く読まれる自身の文章はブログだろうと書いてありました。最近は、商店や企業でも、SNSとブログの連携で集客をすることが大事なので、どの分野にいく人にとっても、書くことは大事。これからは、行政もそうなるでしょう。


僕も、何かを書く際は、いつも「今の自分」の知識の足りなさを痛感するのですが、何かを書くために調べものをすることになるわけで、その積み重ねが、自分の知識を増やすという、循環構造がわけです。だからこそ、書き続けなければならない。ちなみに、上記の本の著者は、書くための調べ物の時間も、執筆時間に含めるということでした。


計画的にToDo管理をして、書く時間を確保した結果の、中毒

金曜くらいに、一過的に、数時間やることがなくなって(書くことがなくなって)、すごく不安になりました。書き続けていたので、別に働きたくないのだが、書きたい、というか、書きたい。「飲みたくないのに、飲む」みたいな、「あるなら飲む」みたいな、そういうことなのかなって、思いました。

良い兆候かな...

ところで先日、書き物のための勉強をするため、本を探して古本屋にいきました。レトロフトの中にある、リゼットです。

人文系で有名な本は、有名なものでも絶版になってるものが多いのだな、と気付く昨今です。人文系の人は、本当に、とにかく書きますね。



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