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人生に疲れた女医が奄美大島に住んでみたら永遠の愛をみつけた話

離人症って単語にピンとくるでしょうか。

簡単に言うと、身体から精神が切り離され、自分を外から客観的に眺めているような気持ち(離人感)になること、自分が現実世界から切り離されているような感覚になる(現実感喪失)こと。
精神科の専門じゃないからちょっとニュアンス間違ってたらごめんなさい。


突然なんの話やねん、って感じですよね。

この離人症の症状に、幼い頃から悩んでいた。
まだ小学校に行かないくらいの年から。

知能が少しばかり早めに発達したのか、
子供のくせにやたら客観視をする子供だった。

自分の状況を冷静に見ていたし、
親の表情、声色、動き、をよく察知して、
子供らしく感情を表出することはほとんどなかったように記憶している。

そんな私が離人症を自覚したのはもしかしたらなんら不思議はなかったのかもしれない。
離人感を自覚すると、
身体と意識が乖離してるその違和感がとても気持ち悪くて、やだなぁって、しょっちゅううんざりしていた。
自分の意識を身体に固定するために集中しているとやがて戻るんだけど、どうしても慣れなかった。

これが離人症というものだと分かったのは、
医学部の学生になり、
精神科の講義中にパラパラとテキストをめくっていたときのことで、

その頃は、たまに帰る実家ですこし症状が出るくらいで日常的にはほとんど症状は無かったが、
強いストレスが原因で起こりうるのだと理解できて妙に心がやすらいだ。

その頃はまだ、自分が幼少期から精神的にトラブルを抱え必死に乗り越えようとしていた、というところまでは自覚できていなかった。

詳細な経歴は書けないから
ふんわりさせておくけれど、
田舎の小学校に通ってから、
大都会の進学校に6年間通った。

小学校まではあまり学校生活が楽しくなくて、
周りに適応できてないのかなと思うことも多かったけど、中学に入ってからは楽しかった。
みんなそれぞれに頭がよく、独特で、
ものすごくキャラが立っており
話していてとても刺激的で楽しかった。
この頃から少しずつ自分の考えを表出するようになったと思う。

ただ、周りの子女はわたしより恵まれた家の子が多く、多くが医者の家だった。
なんとなく、子供から大人になる途中の歳で社会が見えるようになってきて、

ステータスのこととか、
お金回りの感覚とかを体得してしまうと、
うちは周りとは少し違うなあという自覚や、
周りを羨ましいと思ってしまうこと
どうしてうちは、という思考になってしまっていることにに気づき、苦しんだ。

わたしは、この子達と違って、
親が苦労して無理やり学費を捻出してくれている。
だから、学校を出たら、親に楽をさせてあげるようにたくさんお金を稼いで頑張らないといけない。

いつしかそれしか頭になく、
幸い当然のように大学に通わせてもらえる未来があったのだが、
進学したい学部も、やりたいことも、
自分が何をしたいか、で選ぶことができなかったし、そもそも、やりたいことも憧れも、
何もなかった。

こうあるべき、
こうしないといけない、
こうしないと申し訳が立たない。

恵まれてるんだから、頑張らないといけない。

思い返せば、
そんな言葉たちに思考を縛られてきた。

大学は今まで行ったこともない、
遠く離れた県にある、
田舎の大学の医学部に進学した。
穏やかな場所で、刺激は少なかったが
わりと楽しかった。

親からは、三流の大学、と言われた。
現役で国立大の医学部に入ったのに、
三流って言わなくてもいいのに、とは思ったが、
意見を伝えると全否定されてしまった。

親戚に大卒者は多くなく、もちろん医学部出身者もいなかったが、そんな中、学費を捻出してあげて医学部に行けるように育ててあげた自分たちの苦労からすると、わたしの通った大学は三流だったのだろう。

大学時代は概ね楽しく、
18まで行ったことない地方のことをそれなりに楽しんだが、当たり前のように、卒後は都会に戻った。

大学を卒業してからも、
何をしたいのかよくわからなかった。
だが、それでも働く以外の選択肢はもちろんなく、
医師という仕事をするからにはきちんとお役にたつように必死で働くつもりだった。

最初はしんどい仕事を経験すべきだ、
という思考に縛られてしまい、
わたしが選べる中で1番きつい病院で勤務した。
その結果、身体はボロボロだった。

だいたいのことをやる気、根性、などで縛って対応してしまっていたので、自分の身体が丈夫じゃないということも、壊れるまでは知らなかった。

研修医が終わり、
専門を選ぶ際も、しんどい分野を選んだ。
とあるドラマにも描かれるような封建的な場所で、
体力的にも、精神的にも、かなりきついものだった。

まずは35歳までは必死で働きなさい。
いまは恋愛してる場合じゃない。

どれだけ仕事がしんどくても、
精神的に安らぐ機会を見つけられなくても、

親から日常的にかけられる
こういった言葉たちに支配されてきた。

自分の人生を優先したような働き方をするのは、
甘い。

お金のために働く、
なんてことを言ってはいけない。

恵まれてるんだから社会に貢献しないといけない。
それが選ばれた人の責務だから。

それに縛られてきたわたしは
いつしかボロボロだった。


好きなことをして生きていくのは
何故いけないことなの?

お金のために働いている、
どうしてそう言ってはいけないの??

35までって、どういう基準?
わたしは二十代後半というキラキラして楽しいはずの年を、苦しいだけで過ごしてしまっているのに?

自分の人生が何よりも輝かしいものになるために考えるのは恥ずかしいこと?

そんなことを考える余裕もないまま、
身を粉にして働き、
それでもわたしを縛りつける言葉はわたしのタイミングなんて待たずに毎日飛んでくる。

大学に行かなかったわたしの親には、
大学生の間はもしかしたら遊びの期間に見えていたかもしれない。
たしかに楽しいことも沢山あったが、
苦しいほどの勉強をこなして医師国家試験に臨んだのは確かだった。

なにより、自分で稼いだお金で楽しい時間を過ごすというのは学生の頃とは格別だったので、

稼いだお金を楽しいことに使う暇もなく、いつしか壊した身体にかかる医療費や体を壊して働けない間の家賃に消えていくのは、楽しい生活とは思えなかった。

医学部を卒業した後は
20代後半が幻のように消えていき

男と女は生物学的に違うことをきちんと理解していて、結婚や出産を頭のどこかで意識して生きてこれた女医の友人たちは、続々と結婚をしていった。

私はというと
意地悪な同僚や、気の強い後輩や、遠慮のない言葉を時には患者さんや家族から投げつけられながら、虚な目で、夢を見ていた。

こんなに自分の健康も顧みずに、
辛くても笑顔で働いているのだから
いつか大谷翔平選手レベルのスーパーヒーローと
運命的な出会いを果たしてみそめられ、
絵に描いたような幸せな結婚をするかもしれないと1%未満の可能性を真剣に信じて。

己の命を削りながら働いていた。
結婚に夢を見ていたというよりは、
誰かに幸せにしてもらえることを夢見ていた。

だけど残りの99%は
全然だめだ、もっと頑張らないと、
なんでこんなにできないんだろう。
どうして体が思うように動かないんだろう。
サボってるんじゃないのに。
こんなことばかり考えていた。

自己肯定感とか
わたしはわたしのままでいいんだ
という感覚は
母親のお腹の中に置き忘れて来ていた。

身体はとうにボロボロだったが、
いつしか心が死んでいることにに気づいた。


このままでは廃人になってしまうような気がして
わたしは奄美大島に飛んだ。


都会では、
これが欲しい、あれが欲しい、
買えない、羨ましい、
好きなだけエルメスが買える暮らしがしたい。
マセラティに乗りたい。
タワーマンションに住みたい。

そんなことを考えては、
案外不思議とそのへんにたくさんいる、
わたしの憧れを当たり前に叶えている人を見て羨んでしまう日々だった。

私の方が頭がいいのに
私の方が性格がいいのに
私の方が身を粉にして働いているのに
私の方が精神を犠牲にしているのに


なんで私は
ボロボロになった身体にかかる医療費と家賃と、
明日もちゃんと働けるのかって
心配しながら生きてるんだろう?


奄美大島での暮らしは不思議だった。
旬の野菜やフルーツを手に入れるのが好きだった。
島の中でも品揃えや価格に良し悪しがあって、
自分なりにそれを見抜けるようになった気がしたことが楽しかった。

都会からたくさんくる、はっちゃけた観光客目当てのお店は好きではなくて、
地元の人がちゃんと通っているお店が好きだった。

奄美大島ってもともとは何県にあるかよくわかっていないくらい馴染みのない場所ではあったし、
まだまだ知らない方も多いくらい田舎ではあるが、

都会からくる人がそれなりに多いせいで、
突然都会からやってきた女医が悪目立ちもしなかったのが嬉しかった。

職場の医師たちも、それぞれに事情やタイミングや夢があって各地から集まってきており、
どちらかというと奔放な方が多く、
私が悪目立ちすることは一切なかった。


実際に職場の人たちから奇異な目で見られていたのかどうかはわからないけれど、
不必要に詮索をされることもなかった。

長くもなく、短くもない期間のうちに、
少しだけど友達もできた。

毎日、海を見た。
海は、穏やかで綺麗なだけではなかった。
心底腹が立つくらいの強い風の日や、
このまま私の家は沈んでしまうのではないかと不安になるくらい激しい波の日もあった。
それでも、すぐそこに海がある暮らしは
とても尊かった。


おしゃれなんてしなくていい、
ブランド品も持たなくていい。
ヒールも履かなくていい。

誰かの目を気にしなくていい生活は、
ものすごく楽だった。

好きなもの、に素直に、
やりたいこと、に忠実に、
そう思える暮らし

これが好き、
これがやりたい、に

きちんと目を向けて良い暮らし。

誰かを羨んで心が疲れたりすることもなかった。

それは、奄美の風土や、人々が、
都会のいろいろなものに縛られているわたしよりも、格段に自由で楽しそうだったからだろう。
それに、自然の力も偉大だった。
コロコロと変わる空模様(奄美大島は想定外に雨が多く、さっきまで晴れていたのに雨が降ることはしょっちゅうで、天気予報が当てにならなかった)を見ていると、
人間の力や努力ではどうにもならないことがあるということを毎日体感できた。

幼少期から何かに怯え、期待に応えようとしたり、
周りを羨んだりして心に錆を重ねていってしまったわたしが、本当の意味で素の状態で生きることができた。


奄美での生活で、
自分の心に注目することを少しだけ学んだ。

こうしないといけない、
こんな人と結婚するべきだ、

そんな思考に縛られていたわたしが
およそ選ぶはずがなかった人を選んだ。

誰かが幸せにしてくれることを夢見ていたわたしは、幸せという感情や体験のために一緒に考え
、話し合い、行動してくれる人を選んだ。

それに、わたしが生まれてこの方縛られていた、こうしなくてはいけない、という感覚のない人だった。

もともと直感が鋭い一面も自覚していたわたしが、
ある日突然、そうしようと決意し、
伝えたところ、彼は泣いて喜んでくれた。

わたしが他人にとって価値があるのは医師免許を持っているからだ、という親の考え方からすると、
わたしが医者だから人はわたしを好きになるという理屈しかないのだが、
どれだけわたしが醜い心の中で疑っても、
その人にとってはわたしはわたしのままで尊いようだった。

案の定、親は受け入れられるわけがなく、
大荒れした。

まだまだ自己肯定感が高くはないわたしは
彼らの感情や勢いに
踊らされてしまったこともあるけれど、

奄美生活が終わった今、
自分の選択に自信を持って、
その人と暮らしている。


まだ、仕事に関してや、自分のやりたいことに関しては、毎日悩んでいるけれど、
たった一つだけでも、
自分にとってふさわしい選択をできたことを、
わたしは誇りに思っている。


奄美大島と、そこにいる人々に、
とても感謝している。



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