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【読み切り】一瞬の素顔

『Mコーチだ! お疲れなのかな?』

週末の夜、仕事帰りに街に繰り出し、帰宅時間が遅くなった帰り道でのこと。

21:00を過ぎた頃、道路を挟んだ向こう側の通りを、顔見知りのテニスのコーチが歩いていた。

その日の最後のレッスンが終わり、コーチ室に戻るところだったと思う。

手すりに手をかけながら、ゆっくりと階段を上がっていくコーチの姿が、何となく疲れているように見えた。

コーチは私に気づかない。まさか自分が見られているとは思ってもいなかっただろう。

何だかコーチの裏の顔を見てしまったような気がした。

中学で始めたテニス。途中ブランクはあるが、偶然通えるところにテニススクールを見つけ、社会人になってから再開。テニス歴は15年近くになる。

Mコーチは、私がテニススクールに通い出して5年目くらいの時に、他所のスクールからやって来た。

私の第一印象は、『いかにもテニスのコーチ!』というものだった。

爽やかで明るくて日焼けしていて、テニスのコーチになるために生まれてきたような人に思えた。

とっさにコーチの左手を見ると、薬指に光る指輪。

5年間お世話になった最初のコーチの教え方がとても上手で人気だったせいか、Mコーチのレッスンに慣れるまで戸惑った。

飛んでくるボールの感じや、説明の仕方など、同じ内容のレッスンでも、コーチによって多少印象が変わってくる。

教え方も、ポイントだけサラッと説明するコーチもいれば、かなり専門的に踏み込んだことまで説明するコーチもいる。Mコーチは後者だ。

2番目に担任期間が長かったMコーチ。

Mコーチにはきちんと妻子がいるのに、時々『案外、孤独なのかな?』と思う時があった。

こんなご時世のせいもあるが、「10日も家族と会えていない。」と何気なく言ったことがあったからだ。

スクールで見せるコーチとしての明るい笑顔と、1人でいる時の仮面を外した知らない素顔。

誰にでも『複数の顔』があると思うが、偶然とはいえ、表の顔しか知らない人の裏の顔を見てしまうと、訳もなく胸に迫るものを感じてしまう。

見てはいけないものを見てしまったような罪悪感。 

秘密のベールをはがしたような高揚感。

その後も、Mコーチにはスクールで何度も会っているが、あの晩のことは言っていない。

あの夜の疲れたような表情が、今もなぜか忘れられない。


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