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徒然③

「面倒臭い」という感情が積み重なれば積み重なるほど、日々は退屈になっていく。

私は(自分がそうあるかは置いておいて)どんなに感情が消費されても、たとえそれで死にたくなったり、時には死んでしまったりしたとしても、目の前のものごとに一喜一憂できる人間のほうが「面白い」と思う。

しかしそれはいつもだいたい面倒臭いのだ。面倒臭い人間にならなければ、面白く在れないとさえ言えるのではないか。

命を面白がるか、面倒くさがるか、両者はいつも近くにいて、時に交わって、そうしていくうちに社会に様々な層が生まれる。

インターネットが普及した社会で画一化された多様性は、根本的な在り方をシンプルに浮かび上がらせるようで、人間は実に面倒臭くて、面白くて、繊細なくせにくだらない。


だるがり

しばらくnoteを更新せずにいたのは面倒臭かったからだと思う。沸き上がってくる感情を言葉にして書き起こす、起こった出来事を人に見せられるレベルに並べるという作業は、何かそれを突き動かすものがなければ難しい。突き動かされる「何か」に欠ける日々を送っているとも言えるし、ある意味平和的で穏やかな日々を送っているとも言える。

「面倒臭い」と思っていないのに、行動にしてみると「面倒臭そうだな」と感じることはしばしばある。noteをサボるとか、思っていることを伝えることを諦めるとか、そういうのもその類なのかもしれない。

私も間も無く26歳になる。
人によっては、もう若いとさえ思えない「アラサー」を目前に控えても、言葉とは裏腹にあまり焦りを感じていないのは年齢というものにあまり意味がなくなってきているからなのだろうか。

「将来の夢は何」「これからどうしたいの」
そんな話がなくなることは、当たり前だけど少し寂しい。私の将来は今なのか。

大人は「面倒臭い」という言葉で、諦めた自分から逃げている。昔の自分なら情けないと思ったかもしれないが、立ちはだかる壁を壊して怪我をするリスクを負うか、多少嫌な思いをしても避けて身を守るか、長く生きていくためには後者を選んだ方が息がしやすい社会なのだということを雰囲気で飲み込まされる。

大人はみんな、何になりたいのか。
何者にもならなくて良いと言いながら「良い人」であろうとして、弱さをポロポロ落としていく人たちがどうにも繊細で、その繊細さが作られた鈍感として社会を作っていることがどうにも不快になる。諦めながら頑張っている人たちが作る不思議な空気は、呼吸をしているだけで何かに感染しそうになる。

でも面倒臭いから、私も少しずつ大人の空気に染まっていく。


おもしろがり

電車ですごい広角に足を広げて座っている人がたまにいるけれど、あれって無意識なんだろうか。ほとんど男だけど、それ座りにくいよね?と思わず声をかけたくなるくらい不恰好で、快適さに対して恥ずかしさが見合っていないような気がする。恥ずかしいという意識がないからそうなるんだろうけど、私は性格が悪いのでそういうのがすごく面白いなと思ってしまう。

他にも、喫煙所の一歩外でタバコを吸う人とか、わざと背の低い弱そうに見える女にぶつかっていく人とか、とりあえず気に食わないものに舌打ちする人とか、そういった人たちに不思議だな、面白いな、と思いながら少しの憐れみを抱いている。自分が何か被害を受けたらちゃんとやり返したくなっちゃうけど、なんか上手く行ってないんだろうなと思うとそれさえもイライラはしない。

何か物事が起こった時、私の脳内では瞬時に360°カメラが作動する。直感で許せないなと思ったことはだいたい時間が経っても許せないし、面白いなとか不思議だなと少しでも思えばそれはあまり大したことじゃなかったり。

感情を豊かに持っていることは、自衛のために必要なのだ。自分の尊厳が、とかそこまで大それたことじゃなくても、何かが傷付けられている感覚に敏感にならなければいつか大切なものを失ってしまうような気がする。

面白いと思えること、何か新しいことに興味を持てることは、自分自身はもちろん、自分の大事な人を何かから守るきっかけになるとなぜか私はずっと信じて疑わないし、別に面白いことがいくら増えようがそれはなんだか得した気持ちになるから、面白いことは、面白いと思える感覚は、いつになっても失わずにいたいのだ。


アウフヘーベン

この面倒臭い感情と面白いと思える感覚は歳をとるごとにパワーバランスを変えて襲いかかってくる。今見たら何が面白いんだと思うようなお笑い芸人のネタで何時間もゲラゲラ笑えていた高校生の頃の感性はもう無いんだなと思うと、ふと悲しくもなったりする。

面白いことは体力を使うのだ。
面白いを失った大人は、面倒臭いから文句を言う。文句を言ったり何かを批判したりするのは、それっぽいし気持ちがいいんだと思う。

若い私はまだその高尚さが分からない上に、自分がまだ楽しめるものが批判の的になると、それこそそのクレームおじさん・おばさんのことをめんどくせえなと思うようになる。

そういったことを繰り返しているうちに、人は偏るし、面白いと思えるものが限定されてしまうんだろう。私は今その過程にいるんだ、と、生きているだけで嫌というほど痛感させられる。そんな大人や社会に絶望して、若い人が死んでしまうのも分かるような気がする。

面白いことは、面倒臭いことの脇に転がっていることがほとんどだ。何かを批判する体力を、面白いに向けられる大人になりたい。でもだんだんその体力は無くなってきていて、それがとても怖い。

歳を取ることへの恐怖が周りの大人によって作られているのであれば、私はそうならないようにするしかないのだが、大人にそれは難しいのだろうか。

怠惰だなあ。

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